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観た人の9割が知らない、透明人間の本当の正体(映画『透明人間』(2020)感想)

 映画『透明人間』(リー・ワネル監督)、観ました。
結構、落ち着いた邦題だなと思ったら、本当に『透明人間』(1933)のリブートらしいですね。
全体的にソリッドな仕上がりで、
たとえば『ターミネーター2』を思わせるモンスターものとしてもパワーのある作品になっていたと思います。
もちろん、主演のエリザベス・モスが心労で顔つきが変わっていくあたりの芝居の迫真性もすごかった。

 タイトルに書いたように、本作はちょっと手の込んだ描き方をしていて、
もちろん優れたサスペンス・スリラーではあるんですが、
それに止まらない批評性があるな、というところが本作のお得なところだと思いました。

 今日は短い記事なので、このあとすぐ内容のネタバレしていきます。
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みどころ

 最初に、不満だったところから話してしまうけど、
ショッキングな演出のときに、謎のショック音(?)が大音量で鳴るのは、
その時はまじでびっくりするけど、見ようによってはちょっとチープにも思えたな。
ただ、全体的にはすごくエキサイティングでサービス精神に溢れる映画だった。
観て良かったと思うし、みんなに観てもらいたい。

 特に面白かったシーンは、主人公のミスでボヤが起きるシーン。
主人公がフレーム左に消えてから、主人公が置いていった包丁が、テーブルの向こう側にスッと消える。
このカットはうまかったなぁ。普通なら、そんな地味な動きに観客は気付いてくれないんだけど、
このカットではフレーム右でかけっぱなしの目玉焼きが燃えていっているのがミソなんだろう。
観客はそのボヤが気が気でないから、普通なら見逃してしまう小さな動きにも「あれ…? 今何か動いたぞ」となってくれる仕掛けだ。
ここらへんのコントロールは非常にうまくいっていて、自分も上映中に「えっ」と思わず小さく声が出てしまった。

 また、透明人間を実現させている例のスーツ、このデザインも素晴らしかった。
ハスの花みたいなぶつぶつの穴がびっしりとついていて、
そのひとつひとつに極小のカメラ&プロジェクターがくっついている。
おそらく、受けた光を背後に投射する仕組みで透明になっているんだろう。
この深海生物めいた気持ち悪さが、透明人間という存在の気持ち悪さをうまく象徴してくれていたと思う。

 あと、主人公の妹がレストランで首を切られるというショッキングなくだり、これはひとつのクライマックスだった。
妹がいきなり変な反応をするので、ちょっと不思議に思っていると、カメラは妹側に移る。
画面前方にピントのあっていない何か、ナイフ?のようなものが浮いている。
アレっと思っているあいだに、ナイフが走って首がパッカリ開いているという流れ、
ベタかもだけど、画面が非常にコントロールされていて小気味よかったと思う。

支配欲に関する社会批評としての『透明人間』

 もう少しサイズの大きな話をしていく。

 本作には社会批評的な面があって、最も大きなところは、
権力者から弱者への支配欲や暴力を「透明人間」というかたちで可視化しているところだと思う。

 本作には、夫から主人公に対するDVは、映像としては描かれていない。
それは単に暴力的な描写を避けたということではなく、
その暴力性の本質を「透明人間」というギミックを通して表現したかったということなんだろう。

 主人公は透明人間化した夫から、ジアゼパム抗うつ剤。眠気を増大させ、注意力が低下する)を盛られたり、
仕事の面接を邪魔されたり、薬で寝ている間に妊娠させられたりしているわけだけど、
これはデートドラッグや睡眠薬を騙して飲ませたり、妻に専業主婦でいることを無理やり求めたり、レイプなどといった、
家庭内で発生する暴力の典型的なかたちを表現していると思うし、
それを外部の人間はまともに取り合おうとしないという悲しい側面にも、本作の指弾は向けられている。
つまり本作は、透明人間というギミックを通して、パートナー間で起こり得るドメスティックな暴力を、
「非ドメスティックな社会空間」に、そのまま引き出しているともいえると思う。

 一方で本作は、上記の暴力を暴力のまま、つまり単に攻撃欲や性欲の発露としての突発的で可視的な暴力としては描いていない。
どうやら本作は「お前は知っていないが、俺は全部知っているぞ」という、
支配欲・優越欲とか、コントロール・マニア的な欲求こそが、
パートナー間の暴力問題の、その暴力性の根元なんだと言っているようにも思える。

 そしてそれを象徴するのが全編に登場する「監視カメラ」つまり「窃視」というムーブであり、
あらゆる視線が「窃視」となる「透明人間」という存在そのものなんだな。

『透明人間』の原題は"Invisible Man"だけど、
ここに典型的な、男性(Man)が女性を視線によって評価・操作する社会に対する批判を読み出すことは可能だろうと思う。
ただし、視線による支配関係は、男性→女性にとどまらないことは付け加えておきたい。
実際に本作でも、夫が自分の兄をも思うように操っているように、
あらゆる局面で権力者による弱者に対する視線による無形の支配は行われているからだ。

 そういう構図を前提に考えると、最後のクライマックスシーンでは、
主人公は監視カメラの映像や盗聴器やスーツという、それまで相手が使っていたツールを逆手にとり、夫を罠にはめて殺している。
ここに至って「窃視される」だけだった主人公の主客が逆転する、そういうシーンになっていると思う。*1

”Invisible Man”とは誰だったのか

 そしてラストシーンは終わり、主人公はガラス張りの家を出て、歩き出す。*2
ここから始まる、印象的なラストカットにも仕掛けがあるように思う。
主人公がカメラ側に歩いてくる、非常に奇妙な長回しだ。

 それまでの緊張した断続的なカットワークとは違い、カットは割られず、カメラは主人公を真正面に捉え続ける。
主人公はまっすぐカメラ側を見つめ、こちらに近づいてくる。
カメラひいては我々はそれに押されるように後ろに下がっていく。
いつまでこのカットが続くのだろう、もう1カットとして保(も)っていないぞ、と不審・不安に思い始め、
そろそろカット内で動きがあるんじゃないか、あるだろ、と思ったあたりで、
いきなり暗転してスタッフロールとなる。

 長回しのカットに不安になってイラついた、この「不安」と「イラつき」の正体はなんだろう。
それは、自分の見たいものが、自分の見たいタイミングで見ることができないことから生じている。
では、自分の見たいものが見たいタイミングで見られる状態とは何か。
それこそが「窃視」である。

 支配と窃視の象徴である透明人間=夫を殺し、今や非支配者ではなくなった主人公は、
安心した顔ひとつすることなく、観客のいるカメラの方向に向かって険しい顔つきで歩みを進めてくる。
主人公は何を睨んでいるのか。
きっと、睨んでいる先にこそ、本当の "Invisivle Man"が潜んでいるのだ。

 自分とは関係ない場所で苦しんでいる主人公を、スクリーンを眺めているだけの、
既存の権力構造のうえで支配権を行使する不可視の窃視者。
主人公が睨んでいる"Invisible Man"の本当の正体とは、我々のことではないだろうか。

 僕らは主人公や透明人間を、フィクションだと思って捨て置き、映画館を出れば自分と無関係の出来事だと思って忘れてしまうだろう。
しかしそういう態度は、「透明人間が自分を苦しめてくる」と必死に訴える主人公をまともに取り合わず、
精神病院に放り込んだ登場人物たちと相似してはいないだろうか。

 上で述べたように、社会のなかに点在する、僕らから見えない家の中で、
透明人間による支配は今も行われ、苦しんでいる人間たちは無数に存在する。

 そして透明人間になることの欲求は、ラストカットの長回しに不安を感じ、思わずイラついた僕たちの中に確実に潜んでいる。
もし僕らが透明人間であることの欲求に安住しようとするとき、
主人公の鋭い瞳はきっと、僕らの無防備な喉を切り裂くだろうに違いない。*3

 本日は以上です。

*1:こはちょっと夫が油断し過ぎじゃないかという話もある。また、主人公が隠したスーツについても、主人公がウォークインクローゼットから出てきたところは見られているので、捜索されなかったのだろうかなど、ちょっと引っ掛かるところもあったが、「サプライズ」で正体を確信する部分に爽快感があったので、まぁいいかなって感じがしました

*2:本作は、イプセンの『人形の家』という有名な芝居を思わせる部分がある。

*3:このラストカットは解釈が難しいというか、自分が書いた解釈も作り手が意図したものなのか怪しいので、もっとエンタメに振ってくれても良かったと思うんだよね。たとえば、トイレに向かった主人公がナイフを取り出し、殺人を決意する。しかしスーツを取りに行くと、あるはずのものがない。耳元に吐息の音がして暗転、ブラックアウトした中で「サプライズ」の囁き声がしてスタッフロール、とか。