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『ぼっち・ざ・ろっく!』3話:終始、繋がれない手の演出。あと「音楽」を演出すること

 2020年に、当時の「まんがタイムきらら」グループ統括の編集長が『ぼっち・ざ・ろっく!』について話している記事がある。編集長は本作を、意識的に尖った作品を多く掲載している「まんがタイムきららMAX」の代表格であり、読者の中でも「次に来る作品」と思う人は多いのではないかという談話をしてくれている。*1

『ぼっち・ざ・ろっく!』のアニメ化は当時から時間の問題と思われていたが、果たして2022年に登場したTVアニメ版『ぼっち・ざ・ろっく!』は、非常にフレッシュな演出陣・作画陣が、2022年の最新の画面・演出を存分に見せてくれる最高のTVシリーズアニメとして、オタクのTLを席巻中である。

この記事では『ぼっち・ざ・ろっく!』第3話、終始繋がれない手の演出により描かれた、彼らの音楽の「かたち」にフォーカスしたい。

3話の映像演出の概要

 第3話「馳せサンズ」(絵コンテ・演出:山本ゆうすけ(副監督さん))では、4人目のメンバー、喜多の加入が描かれる。
スーパー陰キャの後藤とスーパー陽キャの喜多。その出会いはちぐはぐに見えるが、2人の接近とバンドへの加入に至る道すじの演出は、実に細やかで周到だ。

「ギターが弾ける」と嘘をついてバンドに加入していた喜多には、憧れのバンドメンバー、リョウに近づくという下心があった。
それを聞いて初めて後藤は、「インドア趣味なのに人気者になれる」という邪な動機で音楽を始めた自分との共通点を、正反対できっと交わらないはずと思っていた喜多のパーソナリティに見出すのである。

 しかし、すぐに喜多は「一度逃げ出した無責任な私は、バンドなんてしちゃいけない」とハッキリと述べる。そして、それまでリョウとバンドのことを熱く語っていた握り拳をスッと解き、その手を冷たく光るシンクに滑らせるのだ。
この短いカットのレイアウトも示唆的である。この画面は左上から右下に向かって分割されており、それはたとえば、熱と冷、酒と洗い場、バンドメンバーと観客という対比が、重層的に示されている画面のようにも見えるかもしれない。(もちろん、喜多の手は向こう側に置かれている。)


「一度逃げ出した」、それも自分と同じだと後藤は思う。
もしここで彼女を留めることができなければ、自分はおろか、ライブ直前に逃げて引きこもった自分を受け入れてくれたバンドのみんなをも否定することになってしまうではないかという焦燥感が後藤を襲う。
しかし後藤の手は、喜多の手ではなく、自分の拳をハンカチごと握り込むだけで、このシーンは終わってしまう。

後藤から喜多への共感

 直後、喜多は「これからも頑張ってください、陰ながら応援してます」とやけに明るい笑顔を残してライブハウスを去ろうとしている。
「あっ、あの!」と小さく叫んで駆け出した後藤だが、このまま喜多の前まで行ったとして、おそらく何を言うのかは決めていないのだろう。しかし足を滑らせて転んだ後藤は、洗い場のバックヤードとライブ会場を隔てている緞帳を力いっぱい掴み、引き剥がす。
ここでの後藤の行動は偶然とはいえ、直前のシーンではステージをバックヤードから遠い目で見ていた喜多に対して、象徴的なかたちではあるものの、ステージ側へと向かう道を開くことになる。


原作との比較

 実はこの描写、原作にはないオリジナルだ。(本作、原作からの翻案が驚くほど上手いです。読んでほしい…)
原作の後藤は、自分ひとりで喜多を引き止め説得しているものの、「陽キャであるはずの喜多への共感」という軸の話はしていない。
対してアニメ版での後藤は、転んだあとはうずくまったままだが「私だって喜多と同じ、一度は逃げ出した人間なんだ」と最初に言うことで、まずは喜多への共感を示すというかたちにアレンジされている。さらに虹夏とリョウが後藤を助け起こし、虹夏は「結果的にはバンドと後藤を引き合わせてくれた喜多」と読み替えることで、自然と喜多の復帰への道を示すという、アニメオリジナルの展開が追加されている。


原作漫画、1巻56Pより

 この翻案、非常にうまい。
というのも、原作だとコミカルな画風で後藤の説得は成立していたが、アニメのレイアウトにそのまま置き換えてしまうと、後藤の今の引っ込み思案な状態で、そこまで他人との関係に踏み込めるのか…?という部分には、視聴者として検討の余地が残ってしまうかもしれない。また、バンドメンバーが後藤の発言を補いながら喜多を迎え入れる流れにすることで、ライブ寸前の失踪という、かなり恨まれても仕方ないことをしでかした喜多を、果たして虹夏とリョウは裏でどう思っているのだろうという懸念もある程度は払拭される。(有り体に言えば、虹夏が腹黒に見えないようにしているということだ。)

 喜多の指の練習の跡に後藤が気付いており、それが喜多の意欲の証明になる…という部分は原作通りだ。
しかしアニメスタッフは、喜多の話から少しずつ小さな共感の種を見つけていく後藤の描写を膨らませ、「「本番から逃げ出した者」という大きな共感を背景に後藤が自分から一歩踏み出す!ものの、やっぱり締まらない…。けど仲間が後藤の言いたいことを汲み取って助けてくれた」というかたちにアレンジした。
原作に全くないものを創作するのではなく、少しあるもの同士を繋ぎ合わせて意味を与え、長尺のアニメで見たときに、より大きな軸が見えるかたちに組み上げ直しているというわけだ。このとき、後藤から喜多への別の価値観の寄り添いがより視聴者に臨場感をもって伝わるよう、原作には多くある喜多のモノローグ(内面の吐露)をすべて廃したのも筋が通っている。

「音楽」によるコミュニケーションを描くこと

 そしてここで大事なのは、喜多と後藤のコミュニケーションは、たとえば後藤が喜多の腕を引っ張り、手を握るなどの直接的なアクションではなく、ハンカチや緞帳といった、小道具を媒介に行われていくところだろう。
実は彼女らはいわゆる「きららアニメ」の登場人物ではあるものの、スキンシップ的なコミュニケーションが比較的、少ないように感じている。*2
そしてそれは、本作がバンド音楽を扱っていることと不可分ではないように思う。それはどういうことか。

 ラストシーン。同じコード譜を読みながら、喜多と後藤のギター練習は進む。
ピンクのノート型の可愛いカバーを着けた喜多の白いスマホ(新しいタイプのiPhone)と、
カバーも着けていない後藤の黒いスマホ(古いタイプのiPhone)はまるで違うが、
しかしそれを使って彼女らは同じ曲を練習している。今はそこに意味があるのだろう。

 2つのスマホの間には、後藤の喜多に対する「全然違う人間だったとしても、彼女は私と同じ人間なんだ」という確信を得たときの、ハンカチが置かれている。このハンカチは喜多が後藤の手当てに使ったものだが、この日に後藤が洗って返したものであろう。
そして、こういうハンカチのように、間接的なものであるにも関わらず、自分たちの本質を表現し、そして自分たちが同じ屈託を抱えた仲間であることを伝えるものが他にもある。きっと、音楽もそのひとつだ。

本作は3話時点では歌唱ありでのライブシーンを視聴者に見せないまま、進行している。しかし本作は、彼女らの物語を通し、音楽を直接使わずとも彼女らの間に流れている「音楽」そのものを表現しているようにも見えるのだ。

本日は以上です。

*1:【転載】芳文社創立70周年を迎えて。「まんがタイムきらら」編集長が考える“これからの日常系”の形 | まっしろライター

*2:僕が観てきた『けいおん』『ゆるゆり』『ごちうさ』などには、メンバーを猫可愛がりするキャラが出てきて、他のキャラをワシャワシャするので。