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キャラクターの生まれる渚(TVシリーズ『SHIROBAKO』の映像・音響演出)

この記事は、2015/8/14のコミックマーケット88で頒布された
『アニメクリティーク vol.3.0 特集 蟲・生物・人工物/アニメにおける〈音〉』
に寄稿した文章「キャラクターの生まれる渚(『SHIROBAKO』の映像・音響演出)」を再録したものです。(一部、ブログ用に改稿しました)
↓当時の告知記事
『SHIROBAKO』の音響演出について寄稿しました(アニメクリティーク新刊(C88)) - あにめマブタ

目次

SHIROBAKO』のリアリティ(現前性)の「ずらし」

 2014年から2015年にかけて放映されたTVアニメ作品『SHIROBAKO』は、TVアニメ制作をモチーフにした作品だ。そのため、登場人物たちは、自分自身がアニメのキャラクターでありながら、同時に、アニメのキャラクターをつくり出す立場にある。
 そのような背景から、作中のキャラクター表現は、そのキャラクターが存在するストーリー上の階層構造に応じて、段階的に演出されることとなった。しかし、そのキャラクター表現の階層構造は固定的なものではなく、演出家の意図に応じて流動的に変化することで、独自の効果を上げている。
 本稿では『SHIROBAKO』の音響を含めたキャラクター表現に着目することで、このアニメの中でキャラクターという虚構がどのようなリアリティ(現前性)を持ちえるのかを検討する。

はじめに:アニメ映像における絵と音の同期について

 ここでは、アニメにおけるキャラクター表現を、本稿では便宜的に「絵」と「音」に分けて考える

 アニメでは、まずキャラクターの絵を描き、それに合わせて音を乗せていく。これは、映像制作として少し特殊な制作工程である。
 たとえば、一般的な実写作品では、役者が演じている様子を撮影し、同時にマイクで役者の声を拾う。そのため、役者の動きである「絵」と、役者の声である「音」は、同じタイミングで、同じ人間によって生み出されたものだ。

 反対にアニメでは、キャラクターを描くアニメーターと、キャラクターの声を演じる声優は、まったく別の人間である。
 つまり、アニメでは絵と音が工程上で分断されている。そして視聴者は、それを承知していながら、絵と音の集合から、キャラクターという、統合されたひとつの人格を読み取っている。逆に、絵と音が統合されていない場合、キャラクターの実在は疑われる。

 では、絵と音が統合されていないキャラクター表現というのは、アニメにおいてあり得るのだろうか。また、絵と音が統合されていないアニメの制作過程においては、キャラクター表現はどのようにかたちを得ていくことになるのだろうか。

シーン1:キャラクター表現の「現前性」について

 この問いを踏まえて『SHIROBAKO』の話に移ろう。

 ひとつ目のシーン(シーン1…木下誠一の妄想飛行)は、第17話Aパートのラストシーンである。
 戦闘機をモチーフにした作中作『第三飛行少女隊』の監督である木下誠一は、サウンドトラック(劇伴)の収録に立ち会っている最中、感情が高まりによって、妄想の中で空を飛ぶ。Aパートのラストカットでは、ひとり両腕を横にピンと伸ばしている木下誠一を、音響スタッフたちが驚きの目で眺めている様子で終わる。
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 シーン1(木下誠一の妄想飛行)では、ストーリー上の現実(アニメ制作)で起こっていることと、その描写、つまり視聴者が観ている映像の内容が分断されている。このシーンで流れている音は、実際に録音ブースから聞こえてくる音楽だが、同時に流れている映像は、木下誠一が作中作の美しい空を飛んでいる光景だ。これは妄想ではあるが、作中作の世界観の表現でもある。

 音楽が終わると同時に、映像は現実に戻ってしまう。ここで妄想と現実を映像表現上、明確に分離しているのは「カット」である。
 カットという映像表現上の機能は一般に、時間と空間の隔たりの表現であるため、カットの前後で描かれているものが違っていたとしても、観客は違和感を覚えない。そのため、このシーンの中では、複数カットに分断されるかたちで、ストーリー上の現実と、木下誠一の妄想とが同居することとなった。
 このシーンだけでは単なるコメディかもしれないが、シーン2と考え併せることで、監督の私的な妄想を、複数人が共有することさえ可能な、突き抜けたキャラクター表現へと至らせる道のりが見えてくる。

シーン2:現前性は、絵と音とが高度に統合されたキャラクター表現から生まれる

 ふたつ目のシーン(シーン2…PVの完成と花火)は、第17話Bパートのラストシーンである。
 『第三飛行少女隊』の先行プロモーションビデオ(PV)が完成し、主人公たちの制作スタジオの屋上では、上映会が実施される。
PVには、その話数の中で話題にのぼったカットがいくつも登場する。また、バックで流れているのは、前述のシーン1(木下誠一の妄想飛行)で収録したばかりの、勇壮な音楽である。
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 PVが終わり、宮森あおいが風を感じて振り仰ぐと、作中作に登場する戦闘機たちが、轟音をたてて夜空を横切っていく。更に何発もの花火が、PVの完成を祝うかのように炸裂する。花火の音はいや増しに増して、突然エンディング映像に切り替わる。
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 シーン2(PVの完成と花火)では、シーン1と同じ、PVから流れてくる音楽が鳴っている。音楽が終わった瞬間、PVを投影するスクリーンのある側から戦闘機が現れ、夜空を横切ってスタッフたちが立つこちら側へ飛び去っていく。
 シーン1では、現実に起こっている内容(サウンドトラックの収録風景)と、音楽が表現している内容(大空を飛ぶかのような開放感)とは、背反的である。つまり、どちらかが現実であれば、もう一方は虚構として否定されなければならない。
 対して、シーン2では現実に起こっている内容(PVの上映)と、PVが表現している内容(キャラクターたちは現実に存在して、空を飛んでいる)とは、背反的に描かれてはいない。PVを上映している風景の中に、作中作のキャラクター表現がオーバーラップしてくるかたちだ。このシーンにおいては、現実に対して、キャラクター表現が浸潤して(にじみ出て)きている。

 なぜこのようなことが許されるのかといえば、本作は「絵と音とが高度に統合された表現は、現前性を持つ」という思想に貫かれているからだ。(ここでの現前性とは、虚構のキャラクターが、視聴者の現実に対しても同様に存在するのではないかと思わせる、信ぴょう性のことだ。)

 シーン1(木下監督の妄想飛行)の段階では、作中作の世界は音楽だけで表現され、音楽が位置付けられるべき絵を欠いていたために、音楽が終わった途端、キャラクター表現も中断されてしまった。しかし、PVの制作により絵が入り、絵と音が作中作のアニメ表現において高度に統合されたことで、作中作のキャラクターは、ストーリー上の現実に対して強い現前性を持った。
 これにより、作中作とストーリー上の現実との境界は曖昧になり、カット間の境界を越えて、同じカットの中に2つの現実が同居することとなったのである。

シーン3:私的なキャラクター表現の困難

 「絵と音が高度に統合された表現は、現前性を持つ」という議論を、もう少しだけ推し進めたい。

 みっつ目に挙げるシーン(シーン3…宮森あおいの一人芝居)は、第3話にある。
 主人公宮森あおいの机の上に置かれたぬいぐるみ、ミムジーとロロは本作のナビゲーター役である。もとは宮森あおいのひとり遊びとして登場したミムジーとロロだが、物語が進むにつれて、色んな場所に登場して、徐々に独立したキャラクターとして振る舞い始めるようになる。
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 このシーンでは、仕事で追い詰められた宮森あおいを、カメラは下方から上方へと映していく。このとき、画面外からはミムジーとロロの声が聞こえている。またぬいぐるみが勝手に喋り始めたと思いきや、カメラのフレームに宮森の口元が映り込んだとき、視聴者は宮森の口が動いて、ミムジーのロロの声を出していることに気付く。

 本作にはシーン3のように、宮森あおいのようなストーリー上の現実に登場するキャラクターに対して、わざと絵と音楽(音響)が統合されていないシーンが、いくつか存在する。
 ミムジーとロロというキャラクターは、当初は表情のないぬいぐるみを宮森が操り、声色をそのたびに変えることで表現されていた。ただ、ストーリーの進行とともに、ミムジーとロロは宮森の意志とは別に、勝手に表情豊かに喋り出すことも増えてくる。

 シーン3は、更にそのカウンターである。ぬいぐるみが無い場所で、宮森あおいはミムジーとロロの声色を使って話し出す。
 最初はミムジーとロロの声しか聞こえないため、視聴者は、またぬいぐるみが勝手に喋り始めたかと感じるだろう。しかしカメラワークで宮森あおいの口元が映されることで、宮森あおいの口から、宮森あおい以外の声が出ていることに気付かされる。ここでの彼女はまるで、多重人格者であるかのように演出されている。

 しかし、ここまで検討してきた文脈に従えば、この演出は先述のシーン1(木下誠一の妄想飛行)と同様の構造をとっている。
 ミムジーとロロというキャラクターは、宮森あおいに対してのみ、現前性(実際に生命を持って現実に活動しているかのような信ぴょう性)を持っている。なぜなら、そのキャラクターがどのように動き、どのように喋るのかということを、宮森あおい本人だけが把握しているからである。
 つまり、ミムジーとロロというキャラクターは、宮森あおいの中でのみ、「絵と音が高度に統合されている」状態にあるといえる。

 同様に、シーン1(木下誠一の妄想飛行)では、作中作のキャラクターがどのような空を、どのように飛行するのか把握しているのは、その場では木下誠一監督だけであった。ただし、作中作のキャラクターは、既に彼の頭の中では、絵と音とが高度に統合されている状態にあった。
 つまり、ミムジーとロロを演じる宮森あおいの「不気味さ」と、そして、ひとりで腕を広げて悦に入る木下誠一の「滑稽さ」とは、絵と音(もしくは、話者の口とそれによって発せられる声)との同一性を、未だ私的なレベルでしか統合できていないという点で、根本を同じくしている。

 本作は、アニメ制作者の私的なキャラクター表現を、根本的には「不気味で滑稽なもの」として扱う。なぜなら、それらは彼ら個々のクリエイターの中でのみ現前性を持つようなキャラクター表現だからだ。
 それゆえ本作は、キャラクターの実在を当然視することなく、 絵や音といった部門を異にするクリエイターたちのあいだ、ときには「神」と名指される原作者と制作とのあいだにおいて、表現すべきキャラクター像が徐々にかたちをとっていく過程を、トライアンドエラーの先にある、困難なものとして描くのである。

シーン4:観客が知る私的なキャラクター

 最後の例証に移ろう。
 シーン4(坂木しずかのアフレコ)では、わざと絵と音(キャラクターの声)を統合させないことで、シーン1(木下誠一の妄想飛行)やシーン3(宮森あおいの一人芝居)とは、また別の効果を上げている。

 よっつ目のシーン(シーン4…坂木しずかのアフレコ)は、第23話にある。
 トラブルにより制作スケジュールがひっ迫したことで、キャラクターは仮の鉛筆絵のまま、声優たちのアフレコ(声あて)がスタートする。アフレコに立ち会う宮森あおいのもとに、ずっとチャンスに恵まれなかった声優志望の友人、坂木しずかが現れる。いきいきと演技をする坂木しずかを見て、宮森あおいは彼女のそれまでの苦労を思い、録音ブースの外側で、声を抑えて涙を流す。
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 このシーンで坂木しずかが演じているのは、まだデザインが完成していないキャラクターだ。そのため、監督が描いた仮絵の鉛筆画がプロジェクターに映し出されるなか、坂木しずかのアフレコは進んでいく。ゆえに、観客にとっても、そして坂木しずかの友人である宮森あおいにとっても、坂木しずかが演じているキャラクターは、絵と音が高度に統合された状態にはない

 だからこそ、坂木しずかのセリフは、坂木しずかが演じているキャラクターというより、その時点では、坂木しずか自身のセリフとして、宮森あおいと観客には感じられる。それは、シーン3(宮森あおいの一人芝居)で、ミムジーとロロの声色を使って話していた宮森あおいの言葉が、ミムジーとロロのセリフではなく、観客にとっては、宮森あおい自身のセリフに感じられたことと同様の事態である。

 坂木しずかはそれまで、役を貰えない自分に対して忸怩たる思いを抱えており、宮森あおいはそんな彼女を最も案じている人間のひとりだった。また、そのような宮森あおいと坂木しずかの関係性は、第23話までのあいだに何度も説明され、観客はそれを理解している。つまりシーン4において、「坂木しずかというキャラクター」を知っているのは、ふたり自身と、そして観客だけである

 このシーンで起こっているのは、少し錯綜した事態である。
 プロジェクターに映し出されるキャラクターが鉛筆画の仮絵であることにより、その場にいるあらゆる人間にとって、坂木しずかが演じるキャラクターは「絵と音が高度に統合された状態」にはない。そのため、絵と結びつかずに逸脱したセリフ(音)は、むしろそれを演じる坂木しずかという「絵」と結びつく。奇しくもそのセリフは、それまでの坂木しずかの苦しみを経て生まれたような言葉のように、宮森あおいと観客には聞こえるはずだ。

 ここにおいて、作中作のキャラクターではなく、坂木しずかというキャラクターが「絵と音が高度に統合された状態」となることで、坂木しずかというキャラクターは、宮森あおいと観客にとってのみ、シーン1(木下誠一の妄想飛行)やシーン3(宮森あおいの一人芝居)と同様の、私的な現前性を獲得している。それは、他の誰にも共有されない私的で孤独なリアリティであり、また、他の人からはキャラクターと人物とを混同した錯覚にも見えるかもしれないが、それゆえに感動的である。
 なぜなら、この私的で孤独な音と絵の重ねあわせこそが、揺らぐようにキャラクターを不断に生み出し続け、キャラクターを、アニメを突き抜けて、我々の前に現前させるための起点をなすからである。本作はそのような、キャラクター表現が生起し続ける現場の、震えるような波立ちを、精緻に切り取ってみせる。

 このシーンで宮森あおいは、坂木しずかの声を、ガラス越しに聞いている。しかし、宮森あおいにとって、坂木しずかの言葉は、あたかも自分の目の前で直接発せられたように聞こえたはずだ。そしてそれは、テレビの前にいる観客にとっても、舞台と観客席との垣根を越えて、あたかも自分の目の前に坂木しずかが存在するかのような現前性をもって響くのである。

本作のキャラクター表現が行き着いた場所

 本稿では、TVアニメ『SHIROBAKO』のいくつかのシーンを例にとり、本作のキャラクター表現の軸である「絵と音とが高度に統合されたキャラクター表現は、現前性を持つ」という思想を読み取った。次に、その思想は「私的なキャラクター表現」の不気味さと滑稽さという困難を克服した先にあるものとして扱われていることを検討した。最後に、それらの表現の先に本作が行き着いた、主人公と観客だけの前に立ち現れる坂木しずかという私的なキャラクター表現のテクニックを確認した。

 本作では基本的に、ファンタジックな物事が起こることはない。しかし、そのキャラクター表現は、アニメーションという、絵と音との同期が前提とされるメディアそれ自体の特性と、そして、作中作のキャラクターをストーリー上の現実のキャラクターが表現するという入れ子状の構造を逆手にとることで、非常に先鋭的な場所にまで到達した。
 一方で本作は、幸せなことに、2015年のアニメ視聴者にとって、非常にポピュラーな作品のひとつとして受け容れられることとなった。この困難な両立を成し遂げた本作の存在は、アニメのキャラクター表現の可能性を更に押し広げた功績と、それを評価する多くの視聴者層の下支えという現象とをもって、僕らはこれを強く記憶することになることと思う。

以上です。