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田中あすかという感情の獣(『響け! ユーフォニアム』2期)

田中あすかとは何者だったのか

 「田中あすか」というキャラクターは、『響け! ユーフォニアム』TVシリーズ第2期を貫く太い「心棒」であった。結局のところ、田中あすか黄前久美子という、未曾有に強力な主人公の格さえ「食って」しまったという風情まであった。
 田中あすかが僕の心臓を掴んだのは、1期中盤、何もない部屋で楽譜をにらみつけている田中あすかのカットだ。あすかのメガネのレンズには整然とした音符が映り込み、光線のような視線だけが場を支配している。
 あの部屋は、ほとんどあすかの心象風景だ。
 なんなんだ、この女は。そう思った。

 もうひとつ、印象的なシーンがある。
 1期ラスト、予選会場のステージの上で、田中あすかの鏡のようなレンズの向こう側が、久美子にだけ、ひらりと覗かせるタイミングだ。あすかは力なさげに笑うと、どこか別の場所を見ているような、不思議な顔つきをするシーンだ。僕は当時「田中あすかは、自分の力では避けようがないものについては最初から諦めているので、ああいう力のない表情になるのではないか」と書いている。

 そして、あすかのストーリーは第2期への棚上げされる。その結末がどのようになったのかは、みんなも知っての通りだ。
 この記事は、田中あすかというキャラクターを通して本作の概観を述べていく。
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田中あすかは自分さえ切り捨てうる

 田中あすかは作中最強のキャラクターである。いわゆるトップメタ、グーチョキパーを超える「超パー」である。しかし、あらゆるものの先が見えるがゆえに、彼女はものごとの趨勢に対して無力である。
 そうなるものはそうなる。反対に、そうならないものは、自分がどんな振る舞いをしようと、そうはならないのだ。それを理解しているがゆえに、田中あすかは諦めることに頓着がない。他人を切り捨てるように、自分を切り捨てるのだ。

 他人を読め過ぎるがゆえに他人に期待せず、自分を読め過ぎるがゆえに諦めが良い。それが1期での田中あすかのイメージであった。しかしそれは、2期で徐々に上書きされていく。

2期、田中あすかのイメージを一新するシーン

 2期で僕が最も好きなシーンは、2期3話ラスト、早朝の霧をなかで、楽曲「響け! ユーフォニアム」を吹く、田中あすかの姿だ。

 3話ラストは、自然現象表現によるキャラクター表現の奥行きを見てほしい。
 調べたことを書こう。ここで起こっているのは「放射霧」という現象らしい。日中に暖まった地面が夜間に空へ向かって温度を放射(放射冷却)することで気温が下がっていく。そして一日で最も冷え込む明け方に、空気中にため込めなくなった水分が霧となるのだ。ただし放射霧が現れるのはわずかな時間だけだ。日の出によって地面が暖まるまでだけ現れて、人々が起き出してくることには消えるのである。

 ここではつかの間だけ現れる幻想的な霧に、田中あすかの隠された心持ちが投影されているかのように感じられる。霧の中で切々と鳴くようなユーフォニアムの声も、久美子に見つけられたことで、霧が晴れていくのと同時に影をひそめてしまう。
 この話数では、そういう一瞬の心の動きを、セリフのない映像を使って、視聴者へ向かって滑り込ませてくる。言外の演出のキレという意味では、本作を代表するシーンになったと思う。

田中あすかに流れる冷たい血

 ただ、話数単位でのベストはといえば、2期9話にとどめをさす。いや、ささざるをえない。
 9話は、田中あすかというキャラクター像のクライマックスにあたるエピソードだ。あすかは幼くして家を捨てた父親の影に囚われている。彼女の父親が母親を捨てたような冷たさを、あすかはいつも自分の中に息づいていることを自覚している。あすかは別に功利主義のリアリストを気取っているわけではない、自分の本性が、自分に流れる父親の血が、そうさせるのである。

 あすかは晴香や香織を大切な友人だと考えている、これは本当だ。しかし同時に、自分をいらだたせる崇拝者2人を、突き放したいという衝動がこみ上げるのである。これもあすかの本当だ。
 あすかは「執着」を嫌っている。さきほど、あすかはいろんなものを諦めるのが早いと言った。今になってみれば、あすかは諦めるのがうまいのではなく、執着というものを、ほとんど憎んでいたのではないか。

田中あすかと「執着」

 あすかは、晴香のあすかに対する期待を、友情ではなく執着だと断ずる、香織のあすかに対する崇拝を、敬愛ではなく執着だと断ずる。そしてあすかは自分の母親の期待と畏怖を、執着だと断ずる。
 おそらく、あすかは自分の母親を捨てたいのである、自分の父親がそうしたように。あすかの母親への愛憎は、晴香と香織への感情と相似しているのだ。

2期9話、靴紐を結ぶシーンの淫靡さ

 これを前提に、9話で語りぐさとなった靴紐のシーンを見てみよう。
 あすかは新しい靴を自慢しながら歩く。ここのカット、足元の微妙な自然な傾けの作画がすばらしい。なぜなら、ここが軽やかであればあるほど、次のシーンの影がくっきりと落ちるからである。
 現れた香織は、あすかの足元にかがみこんで、靴ひもをしっかりと結びつける。ここであすかの顔の影がおち、ひざまづく香織には一瞥もない。
 ある人はこのシーンを「いかがわしい」と表現した。その通りだ。こんな構図は往来で開陳されるべきものではない。ほとんど淫靡とさえ言える。だから次のカットでカメラはフェンスの向こう側、盗撮するようなポジションに移るのである。

 いま、あすかにとって香織の心遣いは、自分を香織につなぎ止めようとする執着にしか映らない。1期で晴香を「断ればよかったんだよ、ちがう?」と切り捨てたように、香織に対するあすかの鬱屈は、まるで銅板画のように陰鬱に定着する。
 あすかにとって、自分の頬を張り飛ばした母親も、自分の足元に這いつくばる香織も、行為こそ正反対だが、同じくらいにいまいましく、興味に値しない。彼らの行為から感情を引き出されることを憎むからこそ、まるで感情を持たないかのように振る舞っている、そういうシーンだ。

 「香織の結んだ靴紐」と、母親との紐帯のことを言った「枷(かせ)ね、一生はずせない枷」は同じ意味だ。あすかを「そうあってほしい」というしなだれかかるような重たさであることに変わりはない。
 だから、あすかは何を求められても、何を与えられても、自分自身の感情を動かすことを許さない人間だ。では、あすかは本当は何を求めていたのだろうか。

あすかとユーフォニアム

 9話終盤、あすかは久美子を河原に誘う。あすかがユーフォニアムを練習しているのは、久美子たちが練習する(おそらく下流の)緩やかな川のほとりではなく、もっと上流で流れも急な、護岸整備された川幅の狭い場所だ。人の往来もほとんどなく、頭上を用水が通っている。
 母親のいる家で練習できないあすかはいつもここでユーフォニアムを吹いているという。あすかは、父親から贈られたユーフォニアムで、父親から贈られた曲を吹き始める。寒々しい光景のなかで、あすかだけは幸せそうで、そして逆にいっそう、寂しそうに見える。吹き終えたあすかは、まるで幼い少女のようなほほえみを久美子に向ける。

 このシーン、あすかの幸せそうで寂しそうな様子には、捨てられた子供が自分をくるんでいたタオルケットを握りしめて安心して眠る姿と、親を求めて泣く声をあげる子供の寂しげな調子が、同居している。
 3話で一瞬だけかいま見られたあすかの心象風景そのものの内側で、やり場のない、どこにも伝わらないユーフォニアムの美しい声が響いて、9話は終わる。

あすかの考える「ユーフォっぽさ」

 あすかは父親から贈られた純白のユーフォニアムを吹き続けることが、いつか自分を父親に繋げてくれると信じていた。あすかが求めていたのは、あすかを求めず、そのがんばりをまっすぐに認めてくれる、父親のような人間だったのではないだろうか。

 あすかは久美子のなかにその片鱗を見て「ユーフォっぽい」と言う。あすかの中でユーフォニアムへのイメージは父親と結びついており、そういう強さ、他人を認める鷹揚さを、父親の代用品を、久美子に知らず求め、甘えていたのである。

 反対に自分自身を「ユーフォっぽくない」と言うあすかは、他人が求める「ユーフォっぽさ」(低音、演奏のベース、縁の下の力持ち、安定)を自分の実像とかけ離れていると感じている。父親に捧げるためにずっとユーフォニアムを吹いてきた純真さ、久美子に見せた少女のようなマインドが、あすかの演奏へのモチベーションを規定しているのだ。他己評価と自己評価の乖離は、ユーフォニアムという低音楽器には似つかわしくない、あすかの純白のカラーリングに象徴されている。
※本作で、麗奈を除けば最も演奏が達者なあすかは、実は「ユーフォニアム」という楽器自体が好きなわけではないのだ。

あすかの変化は久美子との繋がりを弱める

 次の10話で、あすかは久美子に父親の影を見ることをやめるように見える。(姉を重ねて)がむしゃらに向かってくる久美子は年相応の女子高生であり、あすかが彼女に求めていた度量の深さは消えている。あすかは彼女にだんだんと失望し、ついには立ち去ろうとする。父親の代用品とはいえ、彼女のどこに「ユーフォっぽさ」を見ていたのかと。

 しかし「あすか先輩だって子供のくせに」と食い下がる久美子に、あすかはハッとしたように見える。あすかはきっと、自分のわがままを認めてくれる人間を探していたことに、自分自身で気付いたのではないだろうか。
 ここからのあすかは自分自身の少女性に嘘をついていない。母親を強引に説得し、父親からの伝言に喜ぶ。しかしそれはあすかにとって最後のわがままだ。

 顔も知らない父親に、純白のユーフォニアムで、一生に一度の演奏を捧げたあすかは、父親を求める自分が大事に抱えていた思いさえ対象化し、次の舞台へと歩いていく。もちろん、父親の代用品だった久美子への不思議な感情も消える。久美子はまるで、自分が振られたこともわからない男子高校生のように右往左往し、だだっ子のように、わからず、雪のなかであすかとの別れを終える。

あすかの演奏は捧げものである

 あすかはこれからユーフォニアムを吹くことはあるだろうかと久美子は考えたかもしれない。それはわからないが、自分があの高原で、河原で聴いた「響け! ユーフォニアム」の自分が大好きだった響きを、あすかが奏でることはこれから二度とないことだろうことだけは、久美子にはわかるのである。

 そして久美子は、今のような感情をユーフォニアムに向けることがなくなる、そういう自分さえ想像する。今の久美子には、それは想像すべくもない世界だ。しかし自分の姉は、そしてあすか先輩は、あちら側へ行ってしまった。自分もいつかは、「今の自分」ではなくなり、自分ではなくなってしまうのだ。
 久美子のそういう夢想を破ったのは、2期1話で花火を見ながら同じように自分を呼び戻したような、麗奈が自分を呼ぶ声である。久美子は返事を返すと、もう一度ステージへと戻ってくる。久美子はこの瞬間が永遠ではないことを知っている。しかし、自分が姉やあすかのいる場所へ向かうのは、今ではないのだ。

「感情」のアイコン

 以上が、本作2期を田中あすかの情動を中心に追った場合のあらましである。本作は「通り過ぎれば省みることのない通過点でありながら、同時に、一度だけでかけがえのないもの」としての高校部活を、感情と自意識に振り回される高校生の皮肉な生き方を、セリフ以外の音楽や芝居の調子のなかで解剖学的に切り取ってみせた、一大傑作であることは間違いない。
 特に田中あすかという巨大なキャラクターをシリーズ通して描き切った京都アニメーションという総体の筆力には、正直圧倒された。すごい。

本日は以上です。