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嵐と火刑~TV版『魔法少女まどか☆マギカ』OP/EDの比較~

0.はじめに

魔法少女まどか☆マギカ新編 叛逆の物語』超よかったですね。

ただ今回は『叛逆』については少し忘れて、
TV版のOP(オープニング)とED(エンディング)について書きます。

2011年の1月放映ですから、もう丸3年経つんですね。
以降、TV版本編についてはネタバレして話しますので、
未見の方は、ぜひ本編をご覧になってから読んで頂けると嬉しいです。
(今回は『叛逆』についてはネタバレしません。)

1.TV版OP/EDは対照的に描写されている

魔法少女まどか☆マギカ』TV版といえば2011年1~3月に放映された
オリジナルTVシリーズアニメです。
衝撃的な展開と圧縮されたストーリーが印象的な本作ですが、
その洗練された演出にも特筆性があります。

そのひとつとして、OP/EDムービーを挙げます。
OP/EDは、作品全体を受けてスタッフが作成した、
イメージムービー、もしくはプロモーションビデオのようなもので、
作品が提示するイメージや皮膚感覚を各90秒に表現します。

本放映では1話から流されたOP『コネクト』、および
展開が急加速する3話から流されたED『Magia』については、
お互いがお互いの描き方を参照するように、
つまり対照的に本作のイメージを描いているように思います。

この文章では具体的に、OP/EDの描写の共通点・相違点から、
その表現を考えます。

2.同じ展開なのに、受ける印象が全く違う

OPそしてEDは、曲調から画面の雰囲気まで、
あらゆる点が違っていると思います。

ただその共通点は、
「走って、眼が開いて終わる」という点です。
この共通点を観察すると、
共通している中にも、しっかりした相違があります。

3.OP:嵐の中を左手に向かって走り抜けるまどか

OPでは、変身したまどかが、画面向かって左手へ、雨の中を走り抜けていくシーンがあります。

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  • 嵐の中を、左手に向かって走る

突如として、まどかが眼を開きます。

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  • 瞼が上がる

そこには青い空が広がっており、
空から落ちてきた水滴が水面を揺らし、まどかは笑いながら涙を流します。

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  • 青空と笑顔

これがOPの「走って、眼が開いて終わる」です。

4.ED:暗闇の中を右手に向かって走り続けるまどか

EDでは、シルエットで表現されたメインキャラクターたちが佇む中を、
まどかのシルエットが、画面に向かって左側から右側へ走り続けます。

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  • 炎の中を、右手に向かって走る

OPが嵐の中を走っているのなら、
EDは逆に、炎の中を走っていることがわかります。
途中のカットインでは、炎に焼け落ちる衣服が映っているため、
背後にゆらめいているのは、どうやら炎のようです。

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  • 途中のカットイン

OPと同じく、黒い幕のようなまぶたが、上下に開きます。

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  • 瞼が上がる

まどかは丸く身を縮めてゆっくりと回転しています。
カメラは引いていき、まどかは巨大な顔のような物体の
目玉の中に閉じ込められていることがわかります。

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  • 丸まったまどかと、巨大な顔

これがEDの「走って、眼が開いて終わる」です。

5.『映像の原則』によれば、左右への移動は異なる意味を持つ

OPの走りとEDの走り、最も大きい違いは、走って行く方向です。

アニメ監督の富野由悠季さんが書いた映像演出書『映像の原則』のまとめ図版を、
落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』> から引用させて頂くと、
画面向かって左(下手(シモテ))への移動は、余裕の勝利や強大な敵を、
向かって右(上手(カミテ))への移動は、
劣勢や苦労の末の勝利を表現するに都合がよいといいます。

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  • 左手への移動は余裕、右手への移動は対抗

たとえば『マギ』1期1st OPなどは、主人公たちは右から左へしか移動しません。
これにより、映像自体に、スピード感とワクワクする気運が宿ります。

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  • 左手に見つけたものを追いかけ続ける

まどマギ』OPにおいては、左側に走り切ることで、雨が止み、青空が現れます。
主人公の右から左への移動は、
優勢な立場からの勝利や、自然な流れを示唆しますから、
まどかは最終的に勝利するのであろうという印象を視聴者に与えると思います。

EDにおいては、かなり不審なことになっています。
まどかは右側に走り切ることで、着ていた魔法少女の服を失い、
どこか暗い場所に閉じ込められています。

主人公の左から右への移動は、劣勢からの勝利や抵抗を示唆しますから、
まどかはやはり、最終的に勝利することを、OPと同じく印象づけます。

しかしその過程は決して楽なものではないことは、
炎に焼かれるまどかに、直截的に描かれています。

少なくともこのOP/EDは、曲調と画面の雰囲気の他にも、
走って行く方向を変えることで、
まどかが走り切ることの2面性を表現しているのではないかと思っています。

更に描写を詳しく対比させてみます。

6.嵐とは「ワルプルギスの夜」を直接的に表している

OPにて、走るまどかに降りつける雨、嵐は、
劇中を考えあわせれば、やはり「ワルプルギスの夜」と呼ばれる
巨大な魔女を思い出させます。

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ワルプルギスの夜は、その余りの強大さゆえに、
普通の人間には大型の台風にしか映りません。
まどかたちの暮らす見滝原の街は1ヶ月後、ワルプルギスの夜によって、
破壊される運命にあります。

そしてOPにおいては、ワルプルギスの夜に対する、
まどかとほむらの対応の違いも描かれています。

7.ほむらはまどかに小さい傘を差し掛けようとしている

OPに出てくるほむらは傘を持っています。
このあとのシーンから降り出す雨をしのぐための傘でしょう。
しかしこの雨傘は、街の人間全てはおろか、数人が入るにも小さ過ぎます。

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  • 傘を差すほむら

劇中から明らかな通り、
ほむらの勝利条件は、まどかを魔法少女にさせないまま、
ワルプルギスの夜から生き延びさせることです。

そのため、当初は全員が生き残る道を模索したほむらも、
今ではまどか以外の人間については、
その生死をつとめて気にしないようにしています。
それは、戦友でもある魔法少女たちに対しても同じことです。

OPのほむらは空を見上げ、近く到来する嵐を見据えています。
脇には他の傘も見えます。
この傘は転がっていませんから、誰かが差している傘でしょう。

きっと1周目のほむらや、2周目のほむらなど、
数十人のほむらが、このほむらの周りで、
傘を差しているのではないでしょうか。

そして結局、ほむらの差し掛ける傘の下に、
まどかが入ってくることはありません。

8.まどかはいつも雨の中へ駆け出して行ってしまう

まどかは雨が到来すると同時に、
思い詰めたような顔で駆け出します。

劇中でもまどかは、明らかに勝ち目のない状況にあっても、
ワルプルギスの夜から逃げ出すことはありませんでした。

過去のほむらは、街を捨てて自分と一緒に逃げてくれとも
懇願したかもしれません。
しかし少なくとも、ほむらが本編のループまで
試行錯誤を続けている以上、
ワルプルギスの夜に到来に立ち向かわないまどかはいなかったのでしょう。

9.雨をしのぐことに対する2人のすれ違い

さきほど言ったようにほむらは、
せめてまどかだけでも助かる方法を探しています。
本編のほむらは、自分ひとりでワルプルギスの夜を倒すことで、
まどかを助けようとしていました。

しかしこの方法には根本的な問題がつきまといます。
第10話のまどかが示したように、
ワルプルギスの夜を単独で倒した魔法少女は、
そのポテンシャルがゆえに、
最終的にはワルプルギスの夜より強力な魔女となり、
ワルプルギスの夜以上の惨禍をもたらします。

これは推測ですが、
本編の「ワルプルギスの夜」とは、何代にも渡って続く「号」のようなもので、
実際は、強い魔法少女が、より強い魔法少女に倒され続けることで力を増した、
蟲毒のような魔女だったのかもしれません。
だから、一人の魔女なのに「ワルプルギスの夜」(魔女の集会)という
複数名の魔女を思わせる名前を持ち、
魔法少女のような影を何人も使役するような姿で描写されたのではないでしょうか。

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ワルプルギスの夜複数人で倒さなければならない理由は、そういうわけです。

単独で戦いを挑んだほむらが、
それに気付いていなかったはずはありませんが、
それだけ追い詰められていたのでしょう。

10.雨は止められるか

まどかはいつも、ほむらを振り切って、
嵐の中への駈け出していってしまいます。
それは劇中11話の展開に従えば、ほむらを助けに行くと同時に、
この雨自体を止めてしまおうと考えているからでしょう。
実際OPでは、まどかが走り切ったあとには、
雨は止んでいます。

この責任感や、決めたら迷わないところはまどかの美点でもあり、
そしてそれと同じ程度には欠点です。

本作のOPでは、まどかのポジティブな面を
表現しています。
しかし鏡写しのようにつくられたEDでは、
まどかのこの性格のネガティブな面を
表現しているように思います。

11.ED:鏡写しのように炎の中へ飛び込んでいくまどか

反対にEDは、OPに対して鏡写しのように作られています。
OPでは土砂降りの雨の中を走っていたまどかは、
EDでは燃える炎の中を走ります。

まどかをとどめようと手を伸ばすほむらに一瞥もないまどかは、
魔法少女のコスチュームさえボロボロに燃やしながら、
暗闇の中へと走り去っていきます。

OPでは嵐を止めたまどかですが、
それはほむらにとって誤算でした。

まどかは結局、「魔法少女が魔女になる直前に呪いの力をキャンセルする」
という物理法則のようなものへと、その姿を変えてしまいました。
これはワルプルギスの夜が、
魔力の高さゆえに自然現象そのものにしか見えなかったのと同じく、
まどかの魔法が物理現象のようにしか観測されないという状況です。

まどかが生きていたことの痕跡は、ほむらの記憶以外からは消えてなくなります。
勿論望んで自分の身を犠牲にしたまどかですが、
それを引き起こした間接的な原因はほむらにあります。

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  • ほむらの責任

OPで嵐を止めたまどかは、
そこまで後悔を感じさせない表情で空を見ています。
まどか本人はそれでよかったかもしれません。
しかしほむらも同じだったでしょうか。

ほむらの視点から見れば、
OPで颯爽と走り去っていくまどかは、
自ら火の中で焼かれにいく、
ED映像のように見えたかもしれません。

炎の中に走り去るまどかに気付くのは、
まどかが円環の理となったときにその場にいた、ほむらだけです。

12.ほむらはまどかがどこへ行くのを止めようとしたのか

まどかが走り、辿り着いた場所はどこだったのでしょうか。
EDのラストカットは、巨大な人間の瞳の中に捕らえられたかのような
まどかの姿で終わります。

本編に従えば、まどかが最終的にとらわれるのは、
円環の理と呼ばれる無機質な冷たい方程式の世界しかありえません。

OPで猫を抱いて微笑むまどかは、
見方によっては、あの暗い世界で一人きりで
眠っているようなものなのかもしれません。

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  • まどかの末路はどちら?
13.まとめ

この文章では、TV版『魔法少女まどか☆マギカ』のOP/EDの共通点および相違点をトレースしていくことで、
まどかの行動が最終的な両面性について考えてきました。
本作は、あらゆる出来事を両面的に描きます。それは思っていたものとは全く反対のことが起きる「皮肉」であったり、
良かれと思ったことが裏目に出る「ヤブヘビ」であったり、
そしてハッピーエンドともバッドエンドとも言い難く、そう終わるしかないであろうと僕らに思わせるような終わり方、
「ビターエンド」や「トゥルーエンド」、「オープンエンド」などと呼ばれるものだったりします。

そのような物語に対する基本的な態度は、脚本・シナリオの枠を越え、
映像によって語られる様々なものの中にさえ、強く感じられることと思います。

最後に、本作のエンディングに対して、僕らはどのように付き合っていくべきでしょうか。
本当にそれで良かったのか、あるいはこの終わり方を認めないのか。
それはどちらでも良いはずです。
なぜなら、それはどちらも、本編のエンディング後に、
1人残されたほむらが考えていたであろうことだからです。

まどかはOPでは左に向かって走り、
EDでは右に向かって走りました。
ただそれは、ほむらから離れていったという意味では、
彼女にとってそう違いのあるものではなかったのではないかと思います。

本日は以上です。