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日常系とはなにか ~死者の目・生を相対化するまなざし~

本稿は「第二十一回文学フリマ東京」2015/11/23で頒布しました同人誌『多重要塞 vol.4』に収録された文章「日常系とはなにか ~死者の目・生を相対化するまなざし~」を改稿したものです。

はじめに

 「日常系」とは、描かれているもの自体ではなく、描かれ方のことだ。
 つまり、カメラが映しているモチーフではなく、カメラ自身の振る舞いを指していうものだ。

 よって、日常系とは、次のような場所や時間を描写したものである。

  • 等価値であり、それゆえに特定に名指しすることができない、無名の場所や時間
  • カットされず、長回しであり、止めることも早めることもできない、記録映像や監視カメラのフィルムリールのような場所や時間
  • 凍結されており、見ている側の意図の及ばない場所や時間
  • カメラの主体さえ、それがあったことを忘れてしまったような場所や時間

 これを言い換えれば、日常系とは「死者の目で撮られた、メディアのあらわれや特徴」のことである。

定義論について、補足

 日常系について「AやBやCや…といった作品のことだ」と言ったとしても、やはり真実の一端を掴むことはできる。なぜなら、ジャンルや分類は、実際の作品が現れたあと、事後的に「発見」されるものだからだ。
 ジャンル定義論争自体に根本的な不毛さがあるとすれば、ジャンルは個々の作品に先んじないために、「ジャンルとは、そもそも事後的に我々が勝手に名付け、定義づけるものだ」という正当性を、相互に矛盾する、あらゆる人の論理に与えてしまうからであろう。

 これから僕が始めようとしている日常系に関する議論だけが、そういう不毛さから免れることはできないだろう。しかし、用例的な数え上げ方にも、やはり取り逃している部分があるのではないか、という思いから、僕はこの文章を書いた。

この文章のもくろみ

 この文章中では、日常系の特徴が示す作品として、次の3作品を挙げる。

  • 1938年初演のアメリカの戯曲『わが町』
  • 1994年発表の日本のコミック『奥村さんのお茄子』
  • 2013年放映の日本のTVアニメ『GJ部』

 これらを「死者の目」というキーワードを使って接続することで、日常系という言葉で我々は何を伝えようとしているのかを説明していく。
 繰り返しになるが、日常系とは、対象の時間・場所に対して、何ら影響を与えることができなくなった時間・場所から、特定に名付けることができない、いわば無名の時間を眺めるような、カットとカメラワークのない、平坦な記録映像的な描写のことである。日常系とは、そのような視線・まなざし・カメラの振る舞い・描写の特徴のことである。

戯曲『わが町』のあらまし

 僕が知る中で、最も古い日常系を書いたのは、ソーントン・ワイルダーという戯曲家・小説家である。

<以下、エンディングまでのあらすじを割って説明する>

 1938年に初演された『わが町』は三幕構成のシンプルなアメリカの戯曲である。観客が劇場に入ってきたとき、舞台上にいるのは「舞台監督」という役柄の男性俳優である。彼はこれから登場する人間を、役名ではなく、実際の役者名で紹介し、この舞台はフィクションであることを、再三強調してみせる一方で、彼は戯曲の舞台の場所と時間を、次のような言葉でかっきりと指定する。

舞台監督 この劇は、題名は『わが町』、作者はソーントン・ワイルダー。制作と演出はA(あるいは、制作はA、演出はB)、出演するのはC嬢、D嬢、E嬢、F氏、G氏、H氏、その他大勢です。町の名前はニューハンプシャー州のグローヴァーズ・コーナーズーーマサチューセッツ州から境界線をちょっと越えたあたりでして、正確にいうと、北緯四十二度四十分、西経七十度三十七分ていうわけですな。さて、第一幕はそのわが町の、ある一日です。日付は一九〇一年五月七日。時は日の出の少し前。
(ソーントン・ワイルダー『わが町』、2007、ハヤカワ演劇文庫、12P)
ソーントン・ワイルダー〈1〉わが町 (ハヤカワ演劇文庫)

 
 第一幕は主人公エミリーの平凡な子供時代を、第二幕はエミリーの平凡な結婚を、そして第三幕は、エミリーの平凡な葬式を扱う。
 第三幕、エミリーの亡霊は「舞台監督」に対して、自分の子供時代を見せて欲しいと頼む。ほかの亡霊たちの制止もきかず、エミリーの亡霊は生前の自分の、なんでもない子供時代の自分と、そして家族のもとに帰ってくる。
 しかし、なにげなく時間を過ごす彼らの様子を見ているうちに、エミリーはその場に居ることに耐えきれなくなる。

 ひとときも止まらず、轟々と流れていく時間は、いつも通りの挨拶であれ、いつも通りの食事であれ、あらゆる瞬間が等しく大切なものである。しかし、その中に暮らす、かつての彼女たちは、その時間自体の大切さに、あろうことか無頓着だ。
 今や死者である彼女には、それらが最も大切なものであることが痛いほどに理解できるが、しかし彼女が過去の母親の幻影の前でどんなに叫び回ろうと、あらゆる瞬間は怒濤のように流れ去り、二度と戻ることはない。そしてエミリーのもとには、あらゆる瞬間に対するあらゆる感情が押し寄せ、その絶え間ない流れに、彼女自身の精神は耐えられない。

 人間はせわしなく動き続けることで、目の前を通り過ぎていく様々なものを、きちんと見ることができない、と舞台監督は言う。エミリーは命を失ったことで初めて、止まらず流れていく時間の美しさと尊さに気付いた。しかしそれは、死者であるエミリーの手は、もう、けっして届かないものだ。エミリーは失意のまま、墓地で眠る自分自身のもとに、帰ってくる。そして、死者の列に加わったエミリーの絶望さえ、年月はゆるやかに奪い去っていくことが、明確に示唆される。
 すべての人々は、何もかも終わってしまった場所から過去を眺めるときにだけしか、止まらず流れていく時間と、その中で自分自身を燃焼させていく人間性の輝きに、気付くことはできない。『わが町』には、第一幕の冒頭で描写された、なんでもない、無名の朝のような、やはり無名の夜が訪れ、幕は降りる。

場所と時間を相対化することとは

 本作で描かれたのは、当時のアメリカのどこにでもあるような町の、どこにでもいるような人間の一生である。しかし、本作はA町のB氏の物語ではなく、ニューハンプシャー州のグローヴァーズ・コーナーズ町のエミリー・ウェブの一生であることをことさら主張する。これはどういう事態か。

 劇作家の別役実は『わが町』に次のような解説を寄せている。いわく「時と場所を限定することで、事物は普遍性を獲得するからである」と。

「ほかならぬエミリーその人」の舞台上の行いが、言ってみれば「朝起きて顔を洗う」という類いの、誰でもがどこでもやるようなものであるから、演劇的な特殊な体験を追体験させられているように見えて、その実、自分自身の日常を、かえり見ていることに気付くのである。つまり、劇場を出てふと我に返ったら、ソーントン・ワイルダーの『わが町』ではなく、自分自身の町を体験させられていたことに思い至る、というわけだ。
 ここには、「特殊化すればするほど普遍化する」という法則が働いている。奇妙な話しだが、世界の片隅で発生した小さな出来事は、「どこにでもあるよ」ということでどこにでもあることを伝えられるのではなく、「ここにしかないよ」ということで、逆にどこにでもあることを伝えられるのだ、ということである。
(前掲『わが町』前掲、205P)

 別役実の言う「特殊化すればするほど普遍化する」法則とは、どのようなことだろう。ここでは「特殊化」と表現されているが、その内実は「相対化」と言ったほうが通りが良いと思う。

 たとえば、僕らがデジカメの写真を整理する状況を考えてみよう。「キャンプに行ったときの電車.jpg」のように名付ければ事足りるケースもあるだろうが、しかし、毎日3食の献立を記録している人の場合は、たとえば「20150304_01_kondate.jpg」などと名付けるかもしれない。なぜこのような違いが生まれるかというと、他と比べて特筆すべき何かが見つからない場合、その時空間は、数値のような相対的な数え上げ方でしか、それがそれであることを示すことが出来ないからである。

 つまり『わが町』のグローヴァーズ・コーナーズという町は、「何年何月何日、北緯何度西経何度」と時空間を相対的な数値によって指定される以外に、その時空間を固有に指し示す情報を持っていない。それゆえ、グローヴァーズ・コーナーズは、僕らのいる時間・場所からは、「あぁ、あそこね」とは決して言えず、非常に相対化された、ぽつんとした時空間として認識される。

 本作は冒頭以外にも、作品の舞台を相対化するような視点を、いくつも仕込んである。
 たとえば、次のようなセリフがある。

舞台監督 (引用者略)ですからわたし、その石の下に、この劇の台本を一部、埋めておこうと思うんですよ。そうすれば、いまから千年前の人間が、ヴェルサイユ条約とかリンドバーグの大西洋横断飛行のことだけなく、ここわが町についても多少の事実を知ってくれるというもんで。
 わかってくれますか?
 そこで――千年先のみなさん――二十世紀のはじめにニューヨークの北にあたるこの地方では、われわれはこんなふうに暮らしていたんです――こんなふうに、成長をし、結婚をし、そしてこんなふうに生きて死んでいったんです。
(前掲『わが町』、46~48P)

 舞台監督は1000年先に生きている人間に向かって、このセリフを言っている。そして本作は、本作自身が演劇であることを序盤から強調してきた。これにより、まるで我々は本作を、西暦3000年になってから発掘された1本の戯曲の再生・再現・リピートであるかのように受け取るような視点を、仮想的に持つことができる。
 この視点は、作中のエミリーたち死者の視点にも似ているだろう。墓地に戻ってきたエミリーに、死者たちは、我々が親近感を覚えるのは「星」だと言うセリフを引用する。

死者の中の男 せがれのジョーエルは星のことをよく知っていたがねーーあれに言わせると、あのちっぽけな光が地球に届くのには何千万年という時間がかかるんだろうだ。人間にゃとても信じられんようだが、よくそう言っていたっけ――何千万年とさ。
(前掲『わが町』、139P)

 死者たちにとって、自分たちが生きてきたあらゆる瞬間は、まるで何千万年も昔に発せられた光のように、非常に相対化した場所にしりぞいてしまっている。彼らにとって、生前の時間は、もはや主体的な時間ではなく、客体として眺めるしかないものだ。

生者の時間、死者の時間

 僕らのような生者にとって、時空間は「今」と「ここ」の積み重ねとして認識されている。言い換えれば、生者はあらゆる瞬間を、価値判断によって次の行動を決めるという意味で、選択行為の絶え間ない連続として生きている。
 しかし死者にとって時空間は、そのようなものではない。死者にとって、生きていた時間は、自分が選択することでそれを変えられるものではなくなってしまったために、あらゆる瞬間が等価値である。

 生者の世界が、選択による、偶発的で刹那的な、価値観のまだらな、極彩色の時空間であるならば、反対に死者の世界は、変化の可能性がなくなり、固定的で、必然性だけが残った、価値観の平坦化された、白黒の監視カメラの映像のような時空間である。
 だから死者は、自分にとって何が最も大切なものであるのかを、失ってから初めて、考えることができる。死者の目には、価値観に応じてクロースアップされるものがなくなるため、自然と、日常生活から受ける小さな喜びの解像度が、相対的に上がってくる。
 それゆえ『わが町』のエミリーは、それらを、何らかの必然性と、侵しがたい聖性をもった、絵画の中の出来事のようにさえ感じるのである。

エミリー 全然わからなかったわ。あんなふうに時が過ぎていくのに、あたしたち気がつかなかったのね。さあ、連れて帰ってください――丘の上へ――あたしのお墓へ。でもその前に、待って!
 もうひと目だけ。
 さよなら、世のなかよ、さようなら。グローヴァーズ・コーナーズもさようなら……ママもパパも、さようなら。時計の音も……ママのヒマワリも。それからお料理もコーヒーも。アイロンのかけたてのドレスも。あったかいお風呂も……夜眠って朝起きることも。ああ、この地上の世界って、あんまりすばらしすぎて、だれからも理解してもらえないのね。
(前掲『わが町』、136P)

 あらゆる瞬間が等価値になってしまった場所から、もう届かなくなってしまった過去の出来事をを眺めるような視線。僕はこのまなざしを、日常系が持っている特別な響きなのだと考える。

 更に言えば、日常系が描くのは相対化された、いわば「無名の時間」である。無名の時間とは、特定に名付けることができるような時間との、いわば相対的な距離によってしか、指定することができないという意味で、無名である。*1

 次のセクションではそんな、あらゆる時間を等価値にして、無名の時間にしてしまうような、日常系が過去を冷たく振り返って眺めるような視線、つまり死者の目が、映像作品においては、どのようなあらわれを見せるのかについて、補足的に説明する。

『ロープ』のあらまし

 アルフレッド・ヒッチコック監督による『ロープ』(1948)というミステリー映画がある。本作は戯曲を原作とし、全編がワンカットに見えるように撮影されたことで有名である。
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<以下、エンディングまでのあらすじを割って説明する>

 しかし本作で最も重要な仕掛けは、そのワンカットの映像を観ていた、つまり映像の主体は誰なのか、という部分にある。どういうことか。あらすじを追ってみよう。

 本作の冒頭ではある男、デイビッドが絞殺される。犯人は2人の男だ。本作は、彼らの犯行から、隠蔽工作や探偵役への抗弁、そして犯罪の露見までを丹念に描いている。ラストシーンでは、窓の外を太陽がビル群の向こう側にゆっくりと落ちていくなか、パトカーのサイレンが近づいてくる。ここまで、80分ワンカットの長回しだ。f:id:yoko-sen:20170603131932j:plain


 最大の仕掛けはエンドクレジットで明かされる。キャスト名が、役名と並んでクレジットされるが、最初にクレジットされるのは、冒頭で死んだあと、一度も登場しなかった男、デイビッドである。それに続き、デイビッドの友人、デイビッドの母親、と、すべての役名がデイビッドに対する関係性によって説明されていく。主人公の2人ですら、デイビッドの友人である。
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 なぜ、このようなことが起こるのだろうか。セリフもないデイビッドは劇中では明らかに主人公のポジションにはいない。ミステリーにつきものの、個性のないひとりの被害者に過ぎない。

 だが、もし、デイビッドは「映像中にずっと出演していた」と仮定することはできないだろうか。
 つまり、本作の長回しのワンカットは、冒頭で死んだデイビッドの、いわば幽霊が見ていた風景に等しいのである。デイビッドは作品中のあらゆる瞬間に、カメラ、つまり映像の主体として登場していたということだ。

時空間を等価値にするような視線の映像表現

 デイビッドを殺した犯人たちは、自分が神に選ばれた人間であることを確かめるため、デイビッドの恋人や両親を呼び出し、死体の入った箱をテーブル代わりにして食事をさせたりする。いわば、死体を家族らに食べさせるような所行を仮想的に行うわけだが、死者にとっては、そのような冒涜行為さえ、クロースアップするような出来事では、もはやない。
 デイビッドは、彼らの行いをカメラの視点から黙って見つめている。カットは割られず、淡々と彼らの行動を追い、その決定的な瞬間に至っても、死者の目は価値判断を行わない。淡々とフィルムを回さざるをえない。死者は主体たりえないからだ。

 このように、死者の視点は、非常にトリビアルな出来事に対しても、最も細心な注意をもってあたるような、特異な視点である。繰り返すように、僕はこの死者の視点を、日常系というジャンルが持っているところの、最も重要な要素だと思っている。それは、もう触れることのできない過去の時間を眺める視線そのものである。僕らはその視線を、もう「死者の目」と呼んでも良いころだろう。

 しかし、一般に日常系と呼ばれる物語に、実際の死者は登場しないという指摘は当然だ。
 僕はここで、死者の目は、字義通りの意味での死者によってのみ、使われるのではない、という用例を提示できると思う。それは『わが町』でも登場した、遠未来の人間が過去を振り仰ぐような視点、もしくは何千万年昔から届く遠い星の光を見るような、宇宙人的で、未来人的な視点である。
 次のセクションでは、1930年代と1940年代のアメリカで生まれた作品から得た視点を、1990年代の日本の作品に対して、適用してみよう。

『奥村さんのお茄子』のあらまし

 高野文子の作品集『棒がいっぽん』の最後に収められた短編漫画『奥村さんのお茄子』は、1994年に発表された、四畳半SFとでも表現される物語だ。

 主人公のもとに突如として到来した、宇宙人とも未来人ともつかない謎の生命体は、一見してみると、スーパーのパート店員の姿をしている。彼女は冒頭で主人公に次のように尋ねる。

「あの/ちょっとおたずねしたいんですが/一九六八年六月六日木曜日/お昼 何めしあがりました?」(『棒がいっぽん』、1995年、マガジンハウス)
棒がいっぽん (Mag comics)

 彼女にとって、その情報は非常に重要なことのようだ。彼女は人間そっくりだが、その体を形作っているのは、肉や皮ではない。遠い未来のどこか別の星からやってきて、地球に潜入するために人間に巧妙に擬装した、別の生命体だ(しかし、どこか抜けている)。

 身体のつくりと同様に、その思想も、価値観も、主人公たち人間とは、似ているようで全く異なっている。f:id:yoko-sen:20151025211119j:plain
 彼女は「あの昼ご飯で茄子を食べたかどうか」「彼はあの場所あの時間に、どこを見ていたのか」という、我々がどうでも良いと思うことに最後までこだわり続け、ようやく答えを得ると去っていく。別の価値観と別の時間を生きる彼女らは、主人公のいつもの、なんでもない無名の昼ご飯のメニューさえ、僕らには人生の最も重要と思われるような出来事と、同じ価値を認めているように見える。
 彼女たちにとって、あらゆる出来事は等価値であり、記憶しておくに値するものだ。

「だいじょうぶ 『何見てたんですか』/なんて聞きに行ったりしません/こりた こちらのかたみんなメチャ記憶力悪い」
(前掲『棒がいっぽん』、192~193P)

<以下、エンディングまでのあらすじを割って説明する>

 まるで彼女たちは、あらゆる過去のできごとに平坦な視線を持つ、『わが町』に登場した死者のようではないだろうか。
 しかし、違う部分もある。作中では、彼女たち宇宙人/未来人にも寿命があり、感情があり、配偶者もいることが明かされる。彼女たちは生きながらも、死者のような目線で、自分自身の人生を感覚しているということだ。それが、彼女たちが主人公たち人間ではなく、宇宙人/未来人であるゆえんなのだろう。

 彼女たちが感覚している世界を、彼女自身が説明するくだりがある。

「楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も/悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も/どっちも六月六日の続きなんですものね/ほとんど覚えてないような、あの茄子の/その後の話なんですもんね」
(前掲『棒がいっぽん』、178P)

 主人公たち人間は、何らかのかたちで名指しすることができるようなイベントごとの断面図として記憶を持っている。そういう意味では、生者の記憶は、濃淡があり、かつ平面的である。
 しかし、彼女たち宇宙人/未来人は、あらゆる出来事は連続しており、それらのうちのどれかが大事で、どれかは記憶しておくに値しないといった、選択されたものとしては感覚しない。そういう意味では、死者/宇宙人/未来人の記憶は連続的で、かつ立体的である。

 主人公の奥村フクオは、最後まで、彼女らの価値観を尊重こそすれ、その目線に立つことはないし、しようとしてもできないだろう。しかし最後に用意された短いシーケンスは読者に、死者/宇宙人/未来人の目線を追体験させてみせる。

 ラストのシーケンス、カメラはあの日のあの時間に茄子を食べていた主人公の脇を通り過ぎ、グラウンドにいる子供の目線を追い、側溝の中にいる虫を丹念に追いながら、カメラはフレームに映るあらゆるものに平等にフォーカスしながら、連続性を持った濃い時空間の中をたゆたっていく。
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 このシーケンスは映画で言えば、長時間カットを割らない、ワンカットの長回しにあたる。死者/宇宙人/未来人の目線は、主人公も通行人も虫も、あらゆる事物に同じだけの重さで注がれている。
 今だけを生きている人間には、どんな意味さえ認めることのできない、相対化された無名の時間が、等価値なあらゆる些細な出来事が、間断なく積み重なって、今という時間を成り立たせている。それに気付くことができるのは、けして生きている人間ではなく、死者/宇宙人/未来人だけなのである。

 しかし、本当に生きている人間は、死者の視点を持つことはないのだろうか。寿命を持ちながら、あらゆる出来事を連続体としてあるがままに知覚していた彼女たち死者/宇宙人/未来人のように、あらゆる出来事が等価値な視点を、持つことはないのだろうか。

死者の目を、生者も持つことができるか

 さて、僕らは段階を踏んで、核心部分に近づいてきた。
 つまり、死者の目とは、死者や宇宙人にしかもちえないものなのだろうか、という問題だ。

 おそらく我々はその目を、生きているあいだに、一時的に、もしくは部分的にだが、持つことができる。すなわち、すでに過ぎ去って、どうにもならない場所を振り返るとき、我々は死者の目を使って、その場所を見ているということだ。
 束の間の死者の目、生きたままに死者の目をもって過去の、終わってしまって相対化された時間・場所を眺めるような視点こそが、日常系をなりたたせる、カメラの振る舞いそのものである。

 ここで、日常系の視点を持った日本のアニメ作品を挙げよう。新海誠によって個人制作された短編SFアニメ『ほしのこえ』の筋書きは、ここまで確認してきた、生きている人間が持つ、死者/宇宙人/未来人的な視線を、最も明示的なかたちで備えている作品のひとつだ。

 特に本作は、未来人的・宇宙人的・巨視的な死者の目を備えているだけではない。生者でありながら、宇宙人的な視点から、凍結されたように終わってしまった学生時代を振り返るヒロインと、哀愁と憐憫をもってその過去を振り返る相手役の視点が、そのSF的な設定と、モノローグの連続と同調によって、仮想的にクロスする。その不思議な視点を持つ語りによって、物語はクライマックスを迎えるという部分に、『ほしのこえ』を日常系として鑑賞する際のポイントがある。

ほしのこえ』のあらまし

<以下、エンディングまでのあらすじを割って説明する>

 中学三年生の主人公ミカコは、敵性宇宙人タルシアンの脅威から、恒星間宇宙船を守るロボットのパイロットとして、好意を寄せる同級生ノボルを地球に残して、帰るあてのない旅に出る。
 タルシアンとの小規模な戦闘を繰り返しながらミカコの船はワープを続け、遂には8.7光年先のシリウス星系からミカコは、ノボルのもとに届くまで8年以上がかかる短いメールを、1通だけ送信する。そして、24歳になったノボルはある日、16歳のミカコからのメールを受け取る。
 そして、次のような2つのモノローグが、セリフの掛け合い(ダイアローグ)のように始まる。

ノボル ミカコからのメールは2行だけで、あとはノイズだけだった。でも、これだけでも、奇跡みたいなものだと思う。……ねぇ、ミカコ。俺はね
ミカコ わたしはね、ノボルくん。懐かしいものがたくさんあるんだ。ここには何もないんだもん。たとえばね
ノボル たとえば、夏の雲とか、冷たい雨とか。秋の風の匂いとか
ミカコ 傘に当たる雨の音とか、春の土の柔らかさとか。夜中のコンビニの安心する感じとか
ノボル それからね。放課後のひんやりとした空気とか
ミカコ 黒板消しの匂いとか
ノボル 夜中のトラックの遠い音とか
ミカコ 夕立のアスファルトの匂いとか。……ノボルくん、そういうものをね、わたしはずっと
ノボル 僕はずっと、ミカコと一緒に感じていたいって思っていたよ
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 この仮想的なダイアローグは、あくまで18歳のミカコと、8年後にそのメールを読んだノボルの、それぞれの独立した語りであることに、まず注意する必要がある。ここにおいて、18歳でタルシアンとつかのま意識を交流させるミカコの宇宙人的で巨視的な視点と、24歳でミカコのことを忘れられずにいるノボルの、凍結された過去のひとときを、まるで今の自分は死者であり、ミカコと一緒にいるときだけ自分は生きていたかのような視点が交錯する。*2
 ふたりは、ふたりで暮らした、決して戻らない中学生時代を、なんてことのない風景と感覚を頼りに、ひとつずつ思い出していく。

 ミカコのメールの3行目以降には、ミカコからノボルへの好意が率直に書かれていたが、そういう熱情は、8年の月日のあいだにお互いに消えてしまったかのように曖昧になり、ただ2人で過ごした時間が、とても大切なものであったという、もっと巨視的な視点だけが残る。
 そしてそれが共有されたような錯覚を、2人は覚えるのである。

 ミカコはもはやタルシアンに、後継者として選ばれた宇宙人であり、そのミカコに対してノボルは未来人だ。
 また、ノボルが意識を同調させたミカコからのメールは8年前のものであるという意味では、ノボルはミカコの時間から取り残された過去の人間である。ミカコとノボルは時間的にも距離的にも(光年とは、時間であり、かつ距離である)遠い場所にいながら、その時空間的な位置づけは非常に、相互に、複雑にねじれている。

「いま」と「ここ」の連続体

 それゆえに本作ラストカットの「私は/僕は/ここにいるよ」というセリフは特別な意味合いを持つ。つまり、時間的・距離的な縛りを越え、現在だけが連続的に積み重なったような立体的な感覚を、つまり死者/宇宙人/未来人的な、時間と空間を「いま」と「ここ」の連続体として感覚するような視点への到達を意味している。*3

 ここにおいて、宇宙人的・未来人的な視点が、既に終わってしまった中学生時代を、いわば「その時間の死体」としての自分が、仮想的な死者として眺めているのである。
 つまり、前段で述べてきたような「死者の目」を、生きている人間が獲得しているといえる。

 それは、本作のSF的な設定と、そして2人の恋物語という枠組みを越えて、無時間性とでも表現されるような、仮想的な死者の彼岸から、生者の此岸の時空間的な連続体の尊さを眺め、共有するという、今日(こんにち)的な意味での日常系の視点は、ここにおいて明示・図示的に、かつ相当にテクニカルな道具立てにおいて、実現されている。

日常系を支配する死者の目について

 ここまでの流れを整理したところで、最後の節に入りたい。

 僕はまず『わが町』によって「死者の目」を、死者が生者の世界に対して投げかける、時空間を超越した醒めた視線として、導入した。そして『ロープ』によって、死者の視点が、あらゆる事物に対して連続的で等価値なまなざしを注ぐ、相対的な価値観を持っていることを確認した。更に『奥村さんのお茄子』によって、生者であっても、宇宙人・未来人的な視点つまり「死者の目」を仮想的に手に入れる様子を観察した。
 そして『ほしのこえ』においては、宇宙人・未来人的な設定によって「死者の目」が複雑に編み込まれたかたちで、生者によってさえ、共有されうるものであることを確認した。そして、それは学生時代の思い出などの、既に死に絶えた、こちらからは操作のきかない、此岸の時空間であり、我々は仮想的に死ぬことによってしか、つまり死者の目を使って生者の時間をうち眺めることでしか、死者の目をもってして、生者の時間の尊さを感覚することはできないという状況を把握した。

 最後は、実際に我々がよく知るタイプの「日常系」作品(下記)の中に、上記で説明してきたような「死者の目」がどのように導入されているかを例証していこう。

『GJ部』における「死者の目」

 『GJ部』は2013年に放映された、テレビアニメシリーズである。本作は、GJ部という謎の部活動に巻き込まれた主人公の1年間を描いたアニメだが、学園祭や卒業式などのイベントそのものではなく、そのイベントに付随する、キャラクター同士のなんてことはない言葉遊びやじゃれ合いにフォーカスすることで、独自の視聴感覚を生んでいる。
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 特に注目したい部分がある。本作には、各話数のエンディング映像が終わったあとに、非常に短いシーケンス(Cパート)が挿入される。実はこの映像は話数をまたいで繋がっており、最終的には登場人物たちの卒業式という大イベントを控えた、前日の放課後の短い一幕が描かれていることが、視聴者に対して段々と明かされていく趣向である。
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 ここでの映像は、この文章で『ロープ』について述べたときのような、カットを割らない長回しであることにも、着目すべきだ。カメラの動かない中で、どうということもない会話が繋がり、しかし、確実に、このメンバーで過ごす時間の終わりが近付いていることを意識し始める。

 『GJ部』第7話にも、次のような会話がある。GJ部長の真央はこたつを仕舞う前、名残惜しむようにこたつに入りながら「あらゆるものごとには始まりがあり、終わりがくるものなのだ。だからこそ、輝けるものなのだ」と話す。「それって、先代部長の言葉ですか?」と訊かれ「うん、まあな!」と返すが、これは実際は真央が考えていたことを、まるで誰かの受け売りであるかのように、照れ隠しに使っているようにも見える。
 どちらにせよ、ここでの真央は、自分自身がいる時間を、まるで既に高校から卒業した人間のような目線で眺めている。

 真央の言葉には「終わりがあるから輝ける」というテーゼがあるが、ここまで我々が確認してきた「死者の目」の文脈から捉え直せば、それは逆である。つまり「それが輝いていたということを知るには、終わりの向こう側からこちら側を眺めなければならないからだ」ということだ。ここにも、死者の目、つまり時空間を相対化して眺めるような視点がある。
 しかし彼らはまだ、卒業式直前とはいえ、学生生活の内側にいる。これは『ほしのこえ』には見られなかった、近年の日常系の大きな特徴である。つまり、学生生活という終わりの定まった期間を、尊さをもって思い出すような視点が、学生生活が終わったあとではなく、むしろ学生生活の内側に、死者の視点が入り込んでくるという事態である。

 このようなことが起こりえる理由は、「死者の目」という、終わった場所を、尊い時空間の連続体として眺めるような視点が、物語の内側ではなく、視聴者側に内在化したからに他ならない。
 そういう意味では、本作は非常にハイコンテクストな日常系であり、現在の日常系がとりうる形態としては、最新型のひとつといって良いだろう。

ゆゆ式』における死者の目

 テレビアニメ化もされた漫画『ゆゆ式』は、仲の良い女子高生3人のどうということもない会話による、関係性の微妙な押し引きを、視聴者は観察していくこととなる。*4
 『GJ部』について僕は「死者の目が視聴者側に内在化していることを前提している」と評したが、その前段階として、彼らの今いる時間を相対化する視点を持つようなキャラクターによって、死者の目が導入されることがある。本作『ゆゆ式』の次のシーンにおいては、その視点を担うのは、顧問の松本頼子こと、おかーさん先生である。

 主人公たちが、3人でいられなくなる日が来ることを考えると寂しくなると話す場面を見てみよう。

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(『ゆゆ式』5巻、芳文社、84P)
ゆゆ式 5巻

 おかーさん先生は、自分も昔はあなたたちのように仲の良い友達がいたが、滅多に会わないと言う。寂しがる3人を見ながら、おかーさん先生は「あのとき思っていたほど、今寂しいと感じないことが寂しいとも思う」と考える。

 このシーンにおいて、おかーさん先生は「主人公たち3人が大人になった姿」として登場している。つまり、主人公たち3人が卒業し、働くようになってから、かつての自分たちのような3人に出会ったときに、どのように思うだろうか、という想像を働かせるシーンだ。
 この文章の文脈においては、おかーさん先生というキャラクターを通して、未来の主人公たち3人が、高校生活を終え、つまり高校生活に手が届かない場所に行ってしまってから、かつての高校生活に亡霊として帰ってきたような構図だ。

 描写においても、このシーンのカメラは、主人公たち3人から少しだけ遊離して、彼女らを客観視・相対化するような視点を持っている。『ゆゆ式』においては、おかーさん先生の視線が、3人の関係性を相対化することで、普遍的な「高校生活」の美しさへの郷愁を、読者の中に想起させるのである。

 『ゆゆ式』においては、主人公3人の仲の良さを優しく見遣るような視線が通底している。その一方で、いずれは別々の道を進むこと、将来のこと、字義通りの意味で死ぬことといった、主人公たち3人の関係性の終わりが、断続的に意識されるような、少し変わった作風となっている。
 本作はそういう意味では、描写や雰囲気といった部分より、むしろストーリーや明らかな会話の中に、高校生活の「死」を読み込むことで、意識的に日常系の風景を作り出しているといえる。

けいおん!』『たまこラブストーリー』における死者の目

 『ゆゆ式』においては、キャラクターの視点として作中に「死者の目」を導入する手法を確認した。その他にも「死者の目」を導入する手法はあるのだろうか。
 次に紹介するのは、映像作品において、フレーミング・カッティングの振る舞いでもって「死者の目」を導入するような手法である。

 2009年のテレビアニメシリーズ『けいおん!』は女子高生のバンド活動を、劇的な対立ではなく、学生生活の細やかさにスポットを当てた作風で、深夜アニメながら、非常にポピュラーな作品として知られる。
 本作を監督した山田尚子は一貫して高校生を描いてきた。2014年に、やはり高校生の男女を描いた『たまこラブストーリー』制作後のインタビューで次のように述べている。

青春時代を離れて久しいのですが、たまこの年代の子たちは、呼吸しているとき、瞬きしているとき、もうすべての瞬間が“青春”なんです。自分が17歳のときはそれが青春とは意識せずに生きてきましたが、それは実に感動的なことで。それを撮りたいという思いでこれまで作品づくりをしてきました。
http://animeanime.jp/article/2015/01/29/21773_2.html、2015/10/25閲覧)

 恐らく、僕らが日常系に感じる感情の襞(ひだ)は、この平易な言葉に集約されるのであろう。
 「あらゆる瞬間が青春である」こと、そして「その時間を生きている間には気付かない」こと。

 僕らはこのことに気付くために、一度、仮想的にではあるが死ぬ必要があることを確認してきた。そして、この死によって、いわば「高校生活を死んだ亡霊」として学校の中をたゆたいながら高校生活を眺めるカメラの振る舞いが、僕らが日常系と呼んでいるものを、『けいおん!』そして『たまこラブストーリー』の内側に織り込むのである。

 山田尚子のフィルムのスタイルを『けいおん!』でシリーズ構成をつとめた吉田玲子は、次のように書いている。

吉田 第1期の1話を見た時に「あ、『けいおん!』ってこういう世界なんだ」と思ったんです。誰も映っていないただの廊下が描かれてたりとか、水道の蛇口が描かれてたりとか。そこに、なにかキュンとするような感覚があったんです。
月刊アニメスタイル第5号、株式会社スタイル、15P)
月刊アニメスタイル 第5号

 ここで述べられているのは主人公が軽音部に入部する直接のきっかけとなる、インストゥルメンタルの「翼をください」の演奏が流れているあいだ、カメラが点描的に映していく数カットのうちのひとつである。(画像3枚目を参照)
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 ここで映されるのは、どうということもない蛇口や、景色を見ている女生徒であり、そしてそれらは作中の主人公たちと直接の関係を持っているわけではない。しかし、我々が確認してきた流れの中に配置するのであれば、これらは一種の『わが町』でエミリーが、そして『ほしのこえ』ではミカコとノボルが別れを告げた、日常のあれこれであることが、すぐに見て取れるだろう。

 この景色は『けいおん!』の主人公たちがいつか見たもの、見ていくものなのかもしれないが、しかし高校生活を送っているあいだには、このような視点で高校生活を見たことは、一度としてなかったに違いない。
 しかし、彼女らが卒業したあと、そして高校生活を卒業した多くの視聴者たちにとっては、今、思い出す高校生活というものは、もはや「死者の目を通した高校生活」でしかない。それゆえ、このようなカメラの振る舞いをもって、高校生活を切り取るのである。

 吉田玲子はこのとき、明らかに、山田尚子というカメラが、高校生活を内側からリアルタイムに撮るような視点を持っている一方で、高校生活を終えてしまった場所から、手の届かなくなった場所を、ただただ郷愁をもって眺めるような、そのような視点を本作に持ち込もうとしていることに気付いた。それはまさに作家性の発見である。
 そして僕らは今や、山田尚子が持っているカメラの振る舞いを、「日常系」という言葉以外で説明することができるはずだ。

日常系とは何か

 ここまで、駆け足ではあるが、日常系というジャンルが持っている特色を「死者の目」というキーワードを使って説明してきた。
 それは、時空間を極度に相対化して、終わってしまった彼岸から此岸を眺めるような醒めたまなざしが、どのように日常系というジャンルの通底する、支配的な冷たい流れとして、今もあるのか、ということについてだ。

 日常系に共通するのは、臨場感の無さかもしれない。確かに現在を映しているはずなのに、わたしは絶対にここにいないという感覚は、この文章で追ってきた「死者の目」によるものである。
 その時空間をたゆたい、何かに触ることも関係することもできず、あらゆる事物のありようを等価値に見やりながら、時空間をイベントによる断面図ではなく、「いま」と「ここ」の連続体を丸ごと、彼岸から此岸を眺めるように、そこにただ、あるだけの視点。
 それは、死者にしか理解することのかなわない場所として、1930年代のアメリカには存在したものの、1990年代以降の日本においては、生きながらにして、仮想的な死者の視点を獲得し、その尊さを愛でるような想像力が、アニメや漫画といったサブカルチャー受容のポピュラーなあり方として、広く浸透するに至った。
 最後に『わが町』の示唆的なセリフを引用して、この文章を終わりたい。

舞台監督 ところで、だれもが知っていながら、めったにそれを取り上げて考えようとはしない事柄がありますよね。どこかに永遠不滅なものがあるということは、みんなが知っている。家でもない、名前でもない、地球でもなければ星でもない……しかし、どこかになにか永遠不滅なものがある。そしてそれが人間とかかわりがあるのだということは、だれもが感づいているんです。過去五千年のあいだ、この世の偉人たちがたえずそれを教えてきた。それなのに、驚くことに、人びとはいつもそれを取り逃している。だが、人間にはだれでも、ずうっと、奥深いところに、永遠不滅な部分があるんですよ。
(前掲『わが町』、112~113P)

 永遠不滅の何かがあることを、誰もが知っていながら、めったに取り上げようとしない何かがある。恐らくそれは、仮想的にでも、自分自身を彼岸に置いてみなければ、見ることもかなわない何かであろう。
 そして、僕らはそれを「日常系」と呼ばれる作品群のなかに、そのかけらを見出そうとしている。

 永遠不滅なものであるにも関わらず、それは終わった場所からでないと観測できない。しかし我々は、確実な終わりをはらんだ期間を越えて、つまり仮想的に死ぬことによって、それに対してつかの間だけ、触れることができるのかもしれない。
 我々は、死に肉薄することによって、永遠不滅のなにか、無時間的な「いま」と「ここ」の連続体を、自分自身の中に手を突き入れながら、探しているのである。

以上

本文を終えて

 昔から考えてきた文章なので、Nagさんから丁寧な感想をいただけたこと、とても嬉しく、今でも自慢になっています。
nag-nay.hatenablog.com

 特に、次のような言い換えで整理して頂いたことで、自分がずっと手の中でこねくり回していたものを、ひとつの絵として、もう一度鑑賞することができた思いがあります。
 Nagさん、本当にありがとうございました。

「日常系作品が(視聴者というよりも)キャラクターが見ている過ぎ去った過去としての風景として見られる時、初めて切れ目のない長回しや他愛もない風景描写に寄る画面の意味が明らかになる」、このようにヒグチさんの論を要約できるかもしれません。あるいは視聴者側に寄せて言えば、決して経験としては触れることのできない音と映像の「私的」な重なり(キャラクターに見られることで現前する空間)に、臨死的な視聴とともに接近することは許されている、とも。

*1:たとえば「西暦」とは、キリストが誕生した瞬間をゼロとし、そこからの相対的な時間的距離によって、特定の時間を指定する方法である。

*2:それは『わが町』のエミリーの別れの言葉に似た、日常生活のあれこれに対する別離の言葉である。

*3:生者は「いま」と「ここ」の連続体の中を生きているが、生きている最中にそれに気付くことはない。死者は「いま」と「ここ」の連続体の中を生きることは決してできないが、それをまるごとすべて、感覚することができる。

*4:本作でも、イベントごとの具体的な描写はさりげなく排される。