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あにめマブタ

@yokolineのアニメ記事がアップロードされます

【告知】文フリ21で発表する文章「日常系とはなにか」のイントロダクション

 ヒグチです。冬は電気毛布が便利です。

 来たる三連休の終わり、11/23(月祝)の文学フリマ東京(第21回)で、実は「日常系」全般に関する文章を発表します。

 タイトルは「日常系とはなにか ~死者の目・生を相対化するまなざし~」です。

 簡単に背景を説明する前に、場所・時間などの詳細を置きます。
 ※簡単に説明といっても、3000文字くらい、きちんと書いてしまったのだけど。
 文章の最後に、新刊の表紙も載せています。


<第二十一回文学フリマ東京>

開催日:2015年11月23日(月祝)

開催時間:11:00~17:00

会場:東京流通センター 第二展示場

アクセス:東京モノレール流通センター駅」徒歩1分

公式HP:文学フリマ - 文学フリマ公式サイト-お知らせ


<参加サークル>

サークル名:あの日熱めの熱燗で

ブース場所:Eホール(1F) C-63


<頒布物概要>

・多重要塞 第四号(新刊):200円(64P)
 ※小説と評論と漫画が計4作

補足:
 声掛けて頂ければ、既刊も出てきます。
 コメントやリプライで、取り置きも致します。


「日常系とはなにか」を書きたくなった理由

イデア墓場

 「なにかテーマを決めて文章を書く」ということを3年ほどやっていると、「思考の不良債権」めいたものがアイデア帳(実際はDropboxのtxtファイル)に溜まっていく。もちろん、すぐに書けてしまうものはアイデア帳から消えていくので、アイデア帳というより「アイデア墓場」と言ったほうが正しいかもしれない。

 アイデア墓場には、たとえば、次のようなものが積み上がっていく。
 「書きたいけど、調査が大変だから足踏みしてるもの」
 「仕込みしてるうちに初期衝動が冷えきったもの」
 「メモ見ても意味不明なもの」
 「文章が太りすぎて意図の伝わらない肉塊にきったもの」など。

 今回書いた「日常系」に関する文章は、アイデア帳の上の方に2年間居座っていたもので、休み休み進めていたものが、ようやく形になったものだ。

セカイ系」を知らずして「セカイ系」を忘れること

 ちょっとだけ、寄り道して書かせてほしい。

 最近「セカイ系」について考えていて、僕は驚いた。どうやら僕は「セカイ系」と「2000年周辺の雰囲気」が区別できていないのだ。Wikipediaの記述とかを見返しても、僕は「それってセカイ系じゃなくてもそうじゃないのか」とか余計なことを考えてしまう。

 僕の中の別の人格はこう言う。
「あの頃の雰囲気は全体的にそんな感じだったんじゃ。あの頃ワシらは自分探しの徒労感や、アイデンティティという言葉の重みに疲れていたし、なんというかもうちょっと清潔な人間性と世界観が欲しかったんじゃ」。
 また別の人格は、うるさくも、こう言う。
 「それは高橋しん新海誠麻枝准らの作家性以外の何かであることを、君は証明できるのか」と。

 たぶん、僕らはセカイ系とはなんであったのかを知る前に、「セカイ系」という言葉を使っていたし、その言葉が便利過ぎたために、セカイ系というものが何を指しているのかを、実のところ、最後まで知ることがなかったんじゃないのか。

 「あの頃の雰囲気」から15年ほど経とうとしている今、「セカイ系」という、誰も実効的な意味を知らない個人的な言葉と、そして個々の作品だけが個別に残っている状態だ。
 そうして、今や僕らはセカイ系を知らずに、2015年を終えようとさえしている。

 もしかして、僕らは「セカイ系を知らないまま、セカイ系を忘れてしまった」のではないか?
 これはちょっとした恐怖だ。

「日常系」を忘れないために

 「日常系」についても、僕は「セカイ系」と同じような恐れを感じている。ただ、このふたつの言葉を取り巻く状況は、まだ少しだけ違っていると思う。

 確かに、僕らはまだ「日常系」を知らずにいるのかもしれない。
 しかし、それでもまだ僕らは「日常系」という言葉を使って、まだ、何ものかをお互いに伝えることができる段階にある。

 だから、今のうちに、日常系について、少しでも考えていることを言葉にしておきたいと思う。
 そして、日常系であるものと、日常系でないものの境目を、よりハッキリしたかたちで、知っておこう。

 そうすれば、僕らは、少なくとも、15年も経ったとき、僕らが日常系について知っているようでいて、その実、日常系について、何も知らなかったことに気付いて愕然とする可能性を、少しだけ低くすることができるんじゃないかと思う。

今回扱う「狭義の日常系」と「死者の目」

 本題に入る。

 結論から言えば、日常系とは、僕の考えでは「作品が何を扱っているか」すなわち「作品のモチーフ」に対して使われるものではない。そうではなく「モチーフをどう描くか」すなわち作品を描写するときの「カメラの振る舞い」に日常系は宿るのではないかと考えた。

 たとえば、生活のこまごまとした部分にクロースアップし、物理的あるいは精神的な劇的対立を避けた、アンチクライマックス的な作品群をまとめて、日常系と呼んでしまうことも、おそらくは可能だろう。
 ※僕はこれらを「広義の日常系」とか「日常もの」と便宜的に呼んでもいい。
  ただ、上記のくくりを採用するのであれば、僕らは「サザエさん」や「ドラえもん」などの地に足の着いたコメディを日常系に含めるか、もしくはそれらを日常系から除外する理由をひねり出す必要があると思う。

 今回の僕の企ては、次のようなものだ。

 日常的なモチーフを中心に扱う作品群、すなわち「日常もの」「広義の日常系」とでも言うべきジャンルの中の内側には、より小さな領域、作品群がある。
 すなわち、日常的なモチーフを中心に扱い、かつ作中に「カメラの特殊な振る舞い」を持っているような作品群。僕らはそれらを無意識のうちに「日常系」(狭義の日常系)と呼んでいるのではないかと考えている。

 今回、僕はその「作中のカメラの特殊な振る舞い」を、便宜的に「死者の目」と名付けた。
 更に「死者の目」を、
 1938年のアメリカの戯曲『わが町』、
 1948年の映画『ロープ』、
 1994年の漫画『奥村さんのお茄子』、
 2002年のアニメ『ほしのこえ』、
 2008年の漫画『ゆゆ式』、
 2009年のアニメ『けいおん!』、
 2013年のアニメ『GJ部』、
 のそれぞれの中に見出し、順番に例証していく、というのが全体の筋書きだ。(全15000文字)

最後に

 僕の考えでは、日常系とは2010年近くになってから初めて観測されたものではない。いわば、モチーフの描写の仕方の一種のパターンとしてさえ、見ることは可能だと思う。しかし、2010年周辺の日常系作品は、明らかに、僕らの「琴線に触れた」のだ。今回、読者のそういう部分に応えることができるような文章を目指そうと思った。この文章が、皆さんが日常系について考える際の足掛かりになれば、とても嬉しい。

 また、今回も文章量的なボリュームは確保したし、誤解はなるべく少なくなるよう、論理の飛躍をなるべく避け、かつ全体としてはエキサイティングであることを心がけたつもりだ。また、信条として、日常系を、社会からの反映や、心理学的な分析と結びつけるようなアプローチは避けた。

 実のところ、この文章はアイデア墓場のなかでも「これを書かないと前に進めない気がするもの」みたいな位置付けにあったので、これを書けたことで結構満足している。

 当日は、ぜひよろしくお願いします。
 ※取り置きからの個人通販も致しますので、お気軽にお声掛けください。

補足情報

<既刊情報>
 ・多重要塞 vol.1(絶版)「視聴者の張り詰めの維持と開放 ~誰得シリアス論~」
  ブログへの再録(前半):30分でエッセンスを掴む! ストーリーの黄金率「三幕構成」 - あにめマブタ
  ブログへの再録(後半):『ラブライブ!』1期のストーリー構成分析(映画脚本の観点から) - あにめマブタ

 ・多重要塞 vol.2「赤いリボン・目玉焼き・渡り廊下~魔法少女まどか☆マギカの構造分析~」
  「赤いリボン・目玉焼き・渡り廊下」という『まどマギ』レビューを書きました - あにめマブタ

 ・多重要塞 vol.3「アニメにおけるサウンド/ボイス演出と、ベストテイクを降ろす技術 ~ヒットメーカー鶴岡陽太のコンセプト志向~」  
  文フリ19にて「音響監督 鶴岡陽太さんの音響演出」に関する文章を発表します - あにめマブタ

<新刊イメージ>
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本日は以上です。