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血液を燃やして走り続けろ ~『マッドマックス 怒りのデス・ロード』感想~

マッドでヒューリーなアレ

 インパクトのあるイベントの連続で構成された映画を「ジェットコースタームービー」と呼ぶが、この映画はジェットコースターそのものだ。
 本作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』では、あらゆるイベントが、猛スピードで疾走する車上で行われる。車のボンネットにくくりつけられたままのような120分間で、120パーセントの満足感を味わえた。
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 この記事では、映画を観て思ったことについて、メモしておく。

<以下、ネタバレ>

エンジンを冷やしたら、もう一度走りだすのは難しい

 本作で最も重要なセリフのひとつが、イモータン・ジョーが、水に群がる群衆に向けて言う「水に心を奪われてはならない」というやつだ。なぜなら、本作においては、ガソリンと使って走り続けられる人間と、水のある場所に留まり続けてしまうような人間が対比されているからだ。

 飲むことのできる水が飲める場所は、作中世界ではイモータン・ジョーの砦だけのように描かれる。水があれば、乾きを潤すことができるが、水のある場所からは動きづらくなる。それは、水に支配されているのも同じだ。
 水に関係したシーンでは、次のようなものがある。マックスが水場で追手を独りで蹴散らしにいく直前、ヒュリオサはマックスに「もしエンジンが冷えてしまったら?」と言葉を投げる。ヒュリオサにとって、エンジンが冷えるということは、単に車を動かしづらくなるという意味のほかに、不安や焦燥によって動けなくなるという意味も含まれているように思った。
 ガソリンはエンジンを熱くさせて、人を運ぶ。しかし水によってエンジンが冷えてしまえば、そこからもう一度走りだすことは難しい。マックスたちも、砦に帰ろうとしてしまう女がいたように、安定していると思える場所への誘惑は、強いものなのだ。

 そういう誘惑を断ち切れるのは、タイトルにもある "FURY"(激怒)や、"MAD"(熱狂)である。それは、エンジンに火を入れて、ガソリンを圧縮・爆発させるエネルギーだ。だから、本作の登場人物は、みんな激怒しながら車を走らせているのだと思う。

期待を裏切られた先で、狂気だけが残ったマックス

 しかし、ガソリンをずっと自分のなかでひたすら燃やし続けていれば、人が内側に持っているエンジンは、いつか壊れてしまう。
 故郷が消失していたことでヒュリオサは大きなショックを受ける。ヒュリオサにマックスは「期待するのはやめておけ。裏切られれば、狂気しか残らない」と助言する。これは明らかに自分自身のことを喋っているように思える。マックスは、激怒しながら自分の中のエンジンが回し尽くして、そうして壊れてしまった人間なんだな。
 本編の開始から30分のあいだ、マックスは一言も喋らない。それは、獣を思わせる猿ぐつわが原因だが、それ以上に、その間のマックスは、獣そのものであり、つまり内側のエンジンがイカれてしまっていて喋れなかったということだ。
 かつて救えなかった少女を思わせるヒュリオサとの出会いと共闘により、マックスのエンジンは再び、唸り声をあげる。これが燃えるわけよ。

「血液」=「ガソリン」

 本作で最もすばらしいカットは、ウォー・タンクのボンネットに開いたスーパーチャージャーの吸気口が開閉して、「ゼーハー」という呼吸音が鳴るところだと思っている。
 作品冒頭、ウォーボーイズに捕まったマックスは、背中に「ハイオク O型」と刺青を入れられて、ウォーボーイズの輸血袋となる。本作において、「ガソリン」と「血液」はほとんど同じ意味なんだな。
 車はガソリンを飲んで走り、人間は血液を飲んで走る。その意味では、あの世界で生き物と車の境界は曖昧になっている。ウォー・タンクは西部劇で言うところの馬車なんだ。というか、本作は車を使っているけど、あれは全て馬に置き換えれば、聖書的な世界観もあいまって、そのまま西部劇になってしまうところが面白いと思う。

「生の種」「死の種」どちらも蒔いて進む主人公たち

 中盤、「鉄の馬の女」たちの1人が、草花や果実、穀物の種をハンドバッグの中に持っている描写があるが、これには、対比される表現がある。女たちが「植え付けられたら死ぬから、銃弾のことを死の種と呼んでいる」と話すシーンだ。
 本作では、銃火器や銃弾は主にマックスによってハンドバッグの中に乱雑に突っ込まれる。つまりハンドバッグには「死の種」が満ちており、つまりマックスとヒュリオサは、死の種をまき散らしながら、怒りの砂漠を進んでいくのだ。
 しかし彼らは、東の果ての地で「生の種」を見つける。重要なのは、生の種も、そして死の種も、帰るときには、同じようにハンドバッグに詰め込まれていたことだ。
 彼らは死を目の当たりにしながら進んだからこそ、その中に活路を見出せたということだ。

 一方、死ぬことからのがれようとしている人間もいる。それは、イモータン・ジョー(不死身のジョー)をその象徴として、それぞれの街のリーダーは、汚染によって変異していく身体をだましだまし使って、街に君臨している。そしてウォーボーイズたちも、死への恐怖を薬物?で克服しているように思えるが、しかし死への恐怖から逃れるために、死の向こう側の復活を信じ、進んで死のうとさえする。

 そういう彼らとマックスたちは、行動原理からして異なっている。ウォーボーイズたちは死への恐怖を忘れるために宗教的狂熱に走る。しかしマックスたちは、未来を生きるために、目前に迫る死を直視しながら、それでも車を飛ばすのだ。生と死が混ぜこぜになった混沌の中の生命力が、イモータン・ジョーという偽りの不滅の存在を倒す、ここがカッコイイ。

影の主人公:ニュークス

 そういう意味では、ウォーボーイズでありながらマックスたちと同調したニュークスは、本作の影の主人公だったと思う。
 腫瘍で先が長くないニュークスは、宗教的な死の中に逃げ込もうとしていた。しかしイモータン・ジョーに見捨てられることでその根幹を失い、閉じこもってしまう。しかし、ある女との出会いによって、ニュークスはもう一度人生を始めるのである。彼は峡谷で女を逃がすために、ウォー・タンクと一緒に爆死する。彼の行動は、車に火を付けて爆発するという意味では、砂嵐の中で起こした行動と大差ないように思われるが、それは違う。
 彼は最終的には、いわば「生きるために、死ぬ」ことができたのだ。

最後に

 本作、上記のようなことを考えながらこの記事を書いてきたが、あらゆる面でサイッコーの映画だった。僕のエンジンが(労働で)冷えてしまいそうなときは、上映期間中に、もう一度観に行くかもしれない。

 本日は以上です。