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あにめマブタ

@yokolineのアニメ記事がアップロードされます

完璧なエンドマークを見た ~『劇場版 境界の彼方 未来編』感想~

境界の彼方 メガネ 演出 考察 感想 アニメ

 本当なら締めの言葉になるんだけど、最初に言っちゃいます。
 TVシリーズを最後まで観て、気に入った人なら、本当に最高の体験ができると思います。ぜひ、劇場へ足を運んでみてください。

 この記事は、『劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE- 未来編』のインプレッション的な感想です。
 本作は、2013年にTVシリーズアニメとなった『境界の彼方』の劇場版前後編の、後編にあたります。前編はTVシリーズのダイジェストと聞いていたため、実は僕は前編を観ていないのですが、前編のラストには、後編に繋がるシーンが追加されています。(宣伝の記事にも書かれている内容です。)
 とはいえ、その部分は後編のファーストシーンになるため、TVシリーズを観ていた人であれば、後編から観ると置いてきぼりを食うということは、恐らく無いと思います。

 この映画を観て驚かされたのは、「僕はこんなにも『境界の彼方』というアニメが好きだったのか」ということ。キャラクターの関係性、セリフ回しや、仕草など、映像の端々に込められた、制作スタッフの作品・キャラクターへの深い思い入れが、観ている側にも乗り移ってくるような、真摯な熱量のある90分に仕上がっていたと思います。
 この記事では、中でも特に印象に残ったシーンについて、ぽつぽつとメモしていくかたちになります。
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 ~ここから下では、内容に触れますので、映画館で観る予定のある方は、今でなく、あとで読んでくれると嬉しいです~

話題1:メガネの描き方

 TVシリーズのとき書けなかったことから、書いておきます。
 神原くんがメガネ好きを自称するだけあって、メガネ描写にはこだわりが感じられたと思う。特に本作では、栗山さんが子供のころから身につけ続けているセルフレームのメガネが、神原くんとの関係性のきっかけとなり、ストーリーに関わってくるところが、ひと味違うところだ。
 というのも、栗山さんは自分の能力に対してすごく抑圧的だった。それは小道具としての指輪と、そしてメガネによって表現されている。
 ふつう、メガネは成長に応じて新調するものだ。栗山さんは子供のころのメガネを身につけ続けているため、メガネは顔にフィットしていない。だから栗山さんのメガネは頻繁にズレるのだ。(ここで、ストーリーとアニメーションが接合している。)

 つまり、本作のメガネは、栗山さんの能力のメタファーとして働いているので、簡単に外されることはないし、メガネ自体にポジティブ・ネガティブ両面のイメージが多層的に乗り合っており、深みのあるメガネ描写というか、メガネユーザーにとってすごく共感できる描き方がされていると思う。

 ところで、メガネに愛憎あるかどうか(?)なんですよね……メガネ描写って。
 やっぱりメガネが出てくればそれで良いってものではないんだと。メガネは身体や生活の一部であり、それにより出来ることは拡張される一方で制限される、そういう愛憎がある。
 本作は、そこ含めたパーソナリティの発露にまで、表現が至っていると思う。
 (今度、アニメのメガネ描写に関する記事も書きます。)

話題2:泉さんの描き方の途方もない厳しさ

 名瀬家の頭領であった泉さんは、テレビシリーズのエンディングで、名瀬家から去ってしまう。今回は弥勒という黒幕に操られ、逆に名瀬家はじめ異界師を襲う役回りとなった。
 今回劇場版での泉さんの描き方は、めちゃくちゃシビアだったと思う。(もちろん、そういう役回りが一番泉さんを魅力的に見せられるということは、本作で納得させられてしまうのだけども。)

 というのも、泉さんは妹弟を守る家父長として、いわば「男親」として強くなるために弥勒の妖夢を自分の体に移植した経緯がある。ただ弥勒は、妖夢を移植するときにも、そして最初から最後まで、「女」としての泉に執着していて「美しい……」と言いながら虫を植え付けるんだな。妖夢を取り込むという泉の判断は、最終的に深刻な災いを招くことになっていく。

 つまりこのシーンでは、異界師たちの社会の中で女を捨てて強くなろうとしている泉が、それでもやはり女であることから逃れられないし、そこを利用される、という意味合いになっているんだ。
 そういう背景があるから、博臣の最後の呼びかけがグッとくるし、だからこそ、泉さんを向こう側から引っ張り出せたんだと思う。

 博臣は泉の背中に追いつこうとすることで、一人の人間としての泉を見失っていた。それは泉自身が妖夢を取り込むことで、人ではないものに近付いていくことと、対応していたと思う。博臣は泉が去ったあとの名瀬家の重圧を受けることで、泉を苦しめていたものの正体と、そして自分が泉を一人にさせてしまっていたことに気付いた。
 博臣は共に歩いて行く、一人の人間としての泉を、もう一度、こちら側へ呼び戻そうとする。それは、神原くんと栗山さんが、自分が引き受けなければならないものを、お互いに分け合いながらこれからずっと生きていくことを決めたのと、構図としては同じだ。
 ここにも、二者の境界があり、その向こう側、それを越えた先を、キャラクターたちは戦いの中で見出していくっていうことだ。

 話を戻すと、弥勒の「美しい……」が回想されるシーンは、泉の悲鳴のような叫びの演技もあいまって、テレビシリーズから続く泉の無念や悔しさを強調するような映像になっている。それが下品な感じでなく、サディスティックな美のようなものを感じさせる部分があって、すげぇ体当たりの演技というか、キャラクターの見せ方になっていたことに驚いた。

話題3:エンディングの完璧さ

 いや、映画館で泣いてしまったわけです。それほどにエンディングが、完璧なんすよ。

 エンドロール前、主題歌が始まってからはセリフが無くってサイレントになるんだけど、そこの作画が、すごく難しいところを、120%で打ち返すような、とんでもなく良い映像になってるんだよな。特にすごいのが、戦いが終わって、各地で戦っていた面々が集まってきて、抱きついて再会を喜ぶところ。
 美月が栗山さんに抱きついて、栗山さんがちょっと驚いて、それでも嬉しそうにする。フレーム右から現れた博臣が二人を追い抜いて、神原くんに飛びつく。バランスを崩して転げる。(ここの作画が、スクリーンの画面を左右目一杯に使っていて、本当にすばらしいんだ。)

 で、二人が倒れ込むと同時にカットが変わって、神原くんがいつもの博臣の悪ふざけだと思って笑いながら、自分の上から乱暴にどかそうとするんだけど、ここでなぜか神原くんがな、すげぇ慈愛に満ちた表情に変わってな、腕を下げるんだ。
 そんで、ここでな、観ているこっちはハッと、博臣が泣いていることに、自然と気付かされるんだ。でな、そうか、ここまで、ずっと気を張って耐えてたんだなぁと思うと、ホントもう、こっちはたまんねぇんですよ。(たまんねぇんですよ…。)

 ここで博臣は画面には、それこそ涙さえ映らないんだけど、この映画の博臣のベストカットはここなんじゃないかとさえ思わせる。
 ここまでさ、シリアスなシーンで博臣が神原にちょっかいかけて、雰囲気がホロッと崩れる場面ってたくさんあったわけじゃん。そういう博臣の、周りを見ることができてる強さに、神原くんも救われてるとこが大きい。だから今回もそうかなって思うじゃん、違うんだよなぁ。
 博臣も救われていたんだと、こっちも気付く。だからこっちは、虚を突かれた感じになって、もう涙なんですよ。

 でね、ここで博臣自身を映さないのもニクい演出だと思うわけ。
 博臣は神原くんの前だから泣けたのであって、他の人には涙を見せられないから、ここまで耐えてたわけでな。だから、それは観客にさえ見せない。だってそれは神原くんしか見てはいけないものなんだから。
 それって、作り手側の、キャラクターへの愛情が、画面の演出に滲み出てきているってことだと思う。勿論、そういう演出を選択することで、担当のアニメーターには、キャラクターのリアクションだけで、起こってることを説明するという、とんでもなく高度な作画を要求することになる。でも、それを120%で打ち返してくるのが、京都アニメーションというスタジオなんだと。演出家が思い描いた映像を作り上げてしまう集団なんだ。

 で、もう「エンドロールって、涙が引いてく時間を確保してくれるものなんだなぁ」と考えていたら、エンドロール後にも、エピローグがある。TVシリーズで何度も描かれた踏切で、神原くんと栗山さんが会話するところね。

 もうさ、最後の「不愉快です!」っていう喜色満面の響きがね、全ての答えになってるわけだよ。
 だってこの話って、「不愉快です」と言われることがすごく怖くなってしまった神原くんの話であり、「不愉快です」と言うことをもう一度許されなくなってしまった栗山さんの話だったんだから。
 このセリフもさ、さっきの神原くんの表情芝居と似た性質がある。つまり、種田梨沙さんの演技ひとつに説得力がかかってきてしまうんだ。これも演者・音響スタッフへの強い信頼がないと、こういうつくりには、なってこないと思う。

 この映画は、色んなセクションのスタッフが、各々がキャラクターの人格へのリスペクトや思い入れを、各々の職能の中で発揮し、それが高いキャラクター表現に向かって一点に統合されているという意味で、圧倒的な仕上がりになっていると思う。特に、上で挙げたエンディングの演出は、TVシリーズを追ってきた人間にとっては、もう何も申し述べるところのない場所に到達しているので、もう「よかったなぁ、ありがてぇなぁ…」という心持ちになってくる。
 ほんと、そういうことなんだよな……。(締め方)

おわりに

 本作に登場するキャラクターたちは、けして多くはない。ただ、その濃密な関係性が、作品の大きなテーマと有機的に相互に結びつき、それが高度な作画と演出と芝居で表現されることで、すごく高い場所に届く映画になっていると思う。
 繰り返しになってしまうし、ここまで読んでくれている人はもう知っていることとと思いますが、もう一度言っておきます。

 TVシリーズを最後まで観て、気に入った人なら、本当に最高の体験ができると思います。
 ぜひ、劇場で、この最高の完結編をご覧になってください。

 本日は以上です。