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あにめマブタ

@yokolineのアニメ記事がアップロードされます

『楽園追放』は3DCG表現を逆手に取った演出に注目

 どうも。ヒグチです。
 『楽園追放』について、インプレッションな感想記事を残しておきたいと思って書いてます。
 次のセクションから完全に【ネタバレ】していくので、気をつけてください。

 僕が感じた全体像として、牧歌的なSF作品というのがやっぱりあるんです。

 色々なものが一見解決したかのように見える世界で、人類はゆるやかに肉体的にも精神的にも縮小再生産を重ね、結果的には衰退を続けているという、ちょっとシニカルな世界観。そういう中で、何か本当のものがあるかもしれないと、もがいていくキャラクターたちに好感が持てる。
 舞台となっている青空と砂漠のように、描写にせよ演技にせよ健康的で、ポジティブな作品だと思った。

 で、そこから、もうちょっと考えてみたいわけで。

キャラクターが作画される⇔ディーヴァが計算する

 まず最初に気付いたのは、最初のビーチのシーン。人々が完全3DCGで動いているんだよね。対して、アンジェラが地球に降下して街に着いてからの人々は2D作画。
 これはすぐに明らかになる話なんだけども、実はビーチのシーンは電脳空間で起こっている出来事。オープンな領域のビーチだから、質の悪いアバターで、ファミリー層が遊んでいるというシーンだ。
 理想郷に思えるディーヴァだが、そこを支配している組織のものさしで、一人ひとりに分け与えられる電脳空間の計算リソースが決められる。組織で名を上げれば、密なポリゴンでアバターを飾ったり、複雑な電気信号を使って「高尚」な快楽を得ることが認められると。(脳内麻薬で得られる電気信号のパターンとかも、手に入れられるのだろう)

 つまり、3Dと2Dの作画の違いを使った表現をしてるというか、物語の設定をアニメの技法を使って表現しているのかと納得できるのが面白かったな。遠景であれば輪郭がカクついているわけだけども、それも演出のうち。地上の人間たちは食うものにも困る人々であっても、肉体の情報量はフルで描写されている。

 この「電脳世界も社会的地位によって、使わせてもらえるリソースが左右される」という設定を見て思い出したのは、たとえばSF小説の『順列都市』(グレッグ・イーガン)もあるけど、最近の下の記事なんかもインパクトがあって想起されたんですね。

『業界関係者が警告、長編CGアニメの4K対応はほぼ不可能』
http://www.businessnewsline.com/biztech/201411190626290000.html

 書いてある内容は、つまり3DCGの映像の超高画質化は、マシンパワーの限界にぶちあたって不可能になるだろうという話。
 どうやら3DCGの映像を作るときに最もネックになるのが、コンピューターの能力なんだと。
 なぜならあらゆる挙動をコンピュータで計算しながら映像化する3DCGは、ある程度より高画質化しようとすると、その計算過程「レンダリング」の時間が、割りに合わなくなってしまうからだ。
 既にピクサーは大手ハリウッド撮影スタジオと同じくらいの敷地を確保してある、なぜなら何万台というレンダリング用のコンピュータを置いておくためだとか。

 つまり3DCGにとって、キャラクターがアニメーションするということの限界が『楽園追放』のディーヴァ世界と同じく、コンピュータの演算速度なんだよ、という意味では、既に現実と同じなんだな。もし3DCGのキャラクターが意志を持ったとして、そういう場合は、なんというか「ハードウェアの取り合い」みたいなことが起こるんだろう、これは逆説的だ。

 上のインタビュー虚淵さんも「フル3DCGでやります」と決まってから脚本にかかってるようで、現実に則した問題や表現を取り込んでいるようにも見えるとこも、本作の面白いところだ。

 次は、世界観についてももうちょっと考えてみたい。

好奇心を失った人間は人間ではないとディンゴは言う

 最後のシーン、ディーヴァの3柱が「更に内部へ、内部へ統制を高めなければ…」と言っていて、多分そういう風にしてディーヴァの人間たちも、袋小路というか、どこにも行けない場所に行き着いてしまうのは示唆されているように思う。

 そういえば、ディーヴァの人間たちは地球のことを「地上」と呼ぶんだよね。ディーヴァは衛星軌道上にあって、地球よりよほど高い場所にあるというのに。恐らくナノハザードから「疎開してきた」という意識が強いのだろう。そういう意味では、3柱が地上の存在を忌避するのは理にかなっている。更に言えば、3柱さえAIである可能性も残っているわけなんだけども。

 あと「ナノハザード」というのはどうやらナノマシン開発が引き起こした災害みたいだ。地球が砂漠になってしまっていることや、サンドワームみたいな化け物が沢山いることを考えあわせてみると、どうやらナノマシンが自律して何かする技術を開発する過程で、それが制御しきれなくなったとか、そういうことではないだろうか。それがナノハザードの真実であれば、3柱が自己進化したAIをあれだけ危険視したことも頷ける。また、マテリアルボディにテロメア短縮因子を送り込んで…という説明もあることから、ディーヴァ側もナノマシン技術を一部使っていることが予想されるわけで。

 ちょっと話が外れてしまった。一方、地球についてもそうだ。アンジェラたちが、あの無音のビジョンを受けて、どう動いていくかにもよるんだけど、地球もこのままジリ貧というか、砂漠の中で人間という種は滅んでいくことも充分有り得るわけで。

 そういう中でフロンティアセッターが、愉快に歌いながら外宇宙へレーザー推進(?)で歩みを進めていくあたりは、皮肉だ。
 『人類は衰退しました』みたいに、「好奇心」みたいなものを失った人類は、ゆるやかに衰退していくだろうという視点から描かれた作品って、時々あるんだよね。たとえば類人猿が樹上から危険な地上に降りてみるとか、洞窟から出て山火事から火を拾ってみるとか。

 じゃあ旧人類と新人類の違いや、それが意味しているものってなんだろう。
 僕は『人類は衰退しました』を観ていたとき考えたんだけども、『衰退しました』の新人類「妖精さん」も、『楽園追放』のフロンティアセッターも、思考というより「自動的」なんだよね。「何かに突き動かされて、何かバーッとやっちゃう」という感じ。

 これを見て、たとえば「動物化した萌えオタク」みたいなのを「新人類」、「知識と前例に凝り固まって情熱を失ったロートルオタク」を「旧人類」になぞらえることもできるんじゃないかと思ったり。
 ロートルの人々って、「こんなの○○じゃない」「本質をわかっていないのに真似ごとだけ覚えて…」みたいに言ったりするわけだけども、動き出すのは遅い。で、何かを始める、好奇心に突き動かされて何かをする、ということを億劫がったり、コストを異様に高く見積もったりで、結局何かをすることができないという袋小路に陥っていくということって、やっぱりあるわけで。
 でもそういうのって自然なことで、別にそれが悪いわけでもなし。ただ相手を「それは本当の○○ではない」というように抑圧したりするのは、あかんと。たとえばディーヴァの3柱がフロンティアセッターを破壊しようとしたように。
 そういう風にも見えたなぁ。

 何にしても、ディンゴがフロンティアセッターに「もうお前が『人間』を名乗ってもいいんじゃないか?」と言っていたのは、「もう俺たちは『人間』じゃなくなってしまった」という認識と表裏であるはずだとは思う。だって「外宇宙へ行こう!」って思える人間、好奇心を持った人間は、実際は誰もいなかったわけだから。人間が好奇心でもって人間になったとしたら、人間は好奇心を失ったとき、人間じゃなくなるんだろうと。

 あと、多分ディンゴが昔の音楽を好きなのは「懐古趣味」の一環なんだけど、フロンティアセッターがロック好きなのは、ちょっと違うんだよな。水平に、ゼロベースから「音楽」を発見しているわけで。13歳くらいの少年が、70年代のファンクミュージックを倉庫から見つけて、勝手にテクノにマッシュアップしているみたいなヤバさがある。そういうところも、若い人の「好奇心」に勝てないってところなんだろうな。

 更に、変なことを考えていく。

3DCGと2D作画の対立という表現

 本作で一番感動したシーンは、アンジェラがフロンティアセッターの助けを借りて、新型AHANと同化したまま、もう一度地球に降りてくるとき、誰もいないコクピットでレバーやフットペダルが上下動するシーンなんだよね。これ、うまく説明できるかなぁ。
 この作品って「アニメ批評」でもあるんじゃないかと思ったんです。本作って、セルルック(セルアニメ風に出力された3DCG)のアニメなんだけど、たとえばエフェクトの多くは2D、鉛筆で描かれてて、キャラクターとかは反対に3DCG。
 うかつなことを言えば、本作のディーヴァってのは3DCGアニメの世界で、地上の地球ってのは2Dアニメの世界なわけですよ。その中で、さっき言ったように3DCGにも計算リソースの限界みたいなものがあって、2Dアニメにも手描きの問題点みたいなものは出てきている。で、お互いが「あっち側は信用ならない」「あっち側は本物ではない」という対立が一部ではあって、それを視聴者側も感じ取ったり、また煽ったりしている。

 そういう中で、たとえばアンジェラみたいな3DCGなのに、一部のカットでは手描きになったり、尻がかわいいとか(いや、これは重要で。尻の肉と太腿の肉の間のへこみ?みたいなものがきちんとあるのはマジで良いよ。)そういう2Dと3Dを越境するようなキャラクターがいると。で、彼女が3Dと2Dの境目をもう一度、明らかに超えていくのが、さきほど挙げた、透明な身体がロボットを動かしているように見えるシーンなわけ。
 3Dでも2Dでも、静止画の集まりであることには変わりがなくて、その間を人間の脳が補うことで、アニメは動いて見える。つまり「無いものを観ている」のがアニメなんだな。
 あのシーンでは「透明なアンジェラが動いて、ロボットを操作している」というように感じられて、なんというか2D作画と3D作画の間に、「無いものをありありと観る」という意味では全く同じであるような2Dと3Dという視点を垣間見たような感じがして、すごく良かった。

 これ、伝わっている自身は全然ないけど、自分用のメモとして残しておこう。
 次のセクションでは箇条書きで気付いたところを書いてく。

箇条書き感想

・四文字漢字のタイトルはなんだか昔のSF小説みたい。クラシカル。

・オープニングまでの手際がトントン拍子なのが気持ちよかった。

・フロンティアセッターの正体が判明するまでがトントン拍子なのも爽快だった。

ディンゴとアンジェラの会話が結構長いのに、画面がそんなに動かないシーンがいくつかあって「もっと動けばいいのに」と思った。そこらへん、ソバのシーンは話している最中もアンジェラがアクションしているので、飽きない。

・ラストの戦闘シーンは『旧劇エヴァ』のアスカVS量産エヴァを思い出すよね、磯光雄さんの作画。あとロケット発射シーンで低温の液体燃料が作った薄氷が剥がれて落ちていく(あれ、本作のロケットって固体燃料ロケットでなかったか?)描写なんかは『王立宇宙軍オネアミスの翼』を思い出す。
 重力とか肉体の重さとかをガッツリ描いているのは、本作の軸とも関係する重要な描写なので、ああいうアニメートの中で説得力が生まれているのはすごい。というか、3DCGアニメーターの人たちがめちゃくちゃ勉強家であるのは、他の3DCG作品を観ていてもわかる。2Dアニメ好きでしょう、絶対。

・SFフードといえばヌードルを食べるもの(『ブレードランナー』)じゃないのか、というテイストのソバシーンだ。

ディンゴのプロポーション内藤泰弘さんの漫画を思い出す。腰が前に出てバランスをとってるところとか。SFウェスタンあたりは『トライガン』も思い出す。

・サンドワームって、昔のSF小説『DUNE 砂の惑星』で初めて出てきたらしい。『トライガン』にも出てくるね。

参考資料、読んで面白かった記事

 本日は以上です。