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あなたを見つけて砂漠を抜け出すこと ~『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』を今考える~

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少女革命ウテナ

 というアニメがある。今から17年前、1997年の4月から12月にかけて放映された全39話のオリジナルTVアニメシリーズだ。
 監督である幾原邦彦のもとに結集した若いスタッフ(のちに第一線級のクリエーターとなる人々ばかりだ)が作り上げた本作は、鮮烈なビジュアル/ストーリー/音響で、多くのアニメファンの記憶に独自の位置を占めるに至った。
 今回俎上に上げるのは、TV版放映の翌々年、99年7月に公開された劇場版『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』だ。

 難解と言われる『少女革命ウテナ』シリーズだが、その原因は、ひとつの言葉が、シチュエーションによって全く違った意味で用いられることだ。
 本作には「永遠」、そして「世界の果て」という言葉で言い表されるものとの対立軸がある。それは、永遠に続くもの、絶対に信じられるものは存在するのかしないのか、という議論だ。
 この世界のどこかに限界点、世界の末端があるのだとすれば、永遠に続くものは原理的にあり得ない。であれば、どちらかの立場をとるのであれば、もう片方は否定するしかない。この2つは本作のキーワードであり、またこの対立がどのような結末を迎えるのか、というのが本作の主題・テーマに深く関わってくる。

 更に、「城」「星」「王子様」「光差す庭」というサブキーワードがある。これは一見、「永遠」に属するように見えるが、後半に行くに従って「世界の果て」側に属していく。つまり、これらは「かりそめの永遠」だ。城は幻であり、星は投影された影であり、王子様は最初から死んでおり、光射す庭はもう無い。

 だから、本作の登場人物たちは、何らかの意味で「永遠」を失った人々だ。彼らは「永遠」を失ったが故に「永遠」を求めている。そのため、「永遠」を約束する学園のシステムに進んで従い、そして縛られているのだ。(本作では、現実主義者に見える者ほどロマンチストであり、ロマンチストに見える者ほど現実主義者な傾向がある。)

 TV版終盤では「世界の果て」との対立と、その結末が描かれた。一方、劇場版では「永遠」の喪失と「世界の果て」の支配と、そこからの脱出に描写を絞り、より内的なメッセージ性が高められている。これは、内的な解決をTV版で、外的な出来事を劇場版で描いた『新世紀エヴァンゲリオン』と対照的だ。
 以下では、僕と友人のゆるめのチャットログをベースに『アドゥレセンス黙示録』の見どころを話していく。

TVシリーズと劇場版の違い

B: ちゃんとテレビシリーズの再構成になってるのがおもしろいよな
A: 冬芽は死んでるってことになってるの?
B: 一番のとっつきにくさがそこだよな、キャラの設定が書き直されてる。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のアスカみたいな
B: 『ウテナ』テレビ版忘れた頃に見るのがいいんかも
A: そういや、アンシーのデザインが変わったことは何か意味があるんかな
B: ウテナのデザインも変わってた
A: 短髪でね。アンシーは性格もちょっと変わってた、ていうか本性むき出しやったな
B: アンシーはテレビ版の記憶を持ってたんじゃないのか、一番キャラが違う。アンシーの着ているドレスも、テレビ版の赤から白だ。

ピンク髪のオペレーターと、交通機関

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B: 記憶といえば、最後に手伝ってくれたオペレーター、みんなピンク髪だったね
A: あれどういうことなんやろね
B: 最後に名札がアンシーとウテナだったじゃん。髪型や設定の違う、たくさんのウテナやアンシーがいるってことなんかなと。
A: はぁ、そうか
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B: たくさんの彼女らが手伝ってくれたと。テレビシリーズのウテナとアンシーもいたし、今回のウテナとアンシーもいた、とか?
A: なんかそれ、『輪るピングドラム』のパラレルワールドみたい
B: うん、平行世界とかパラレルワールド
A: 運命の乗り換えには乗り物が必要やね。ピンドラの電車とか、ウテナの車とか
B: ピンドラの「ポイントを切り替える」とか、ウテナの「バイパスを抜ける」とか
A: うんうん

謎とメッセージ

B: 正直言って、ウテナ劇場版は難解なんだよなぁ
A: でもさ、ピンドラもそうやったけど、個々の仕掛けの謎解きは難しいけれど、メッセージは明白にある感じがするわ。どっかの考察に、幾原監督はシンプルなメッセージを、ものすごく回りくどく伝えるってあった
B: ほんとそうなぁ。あまりに回りくどいから、これが答えなのかいつも疑ってしまうくらい
A: 一言で済んでしまうことに24話とか割くからこそ、メッセージに重みが出るのかもしれんけども
B: 『ウテナ』なら「いつか一緒に輝いて」とか、『ピンドラ』なら「○○」だ

色んな可能性のこと

B: 「殻を壊して外に出ろ」というやつ、あれはどう?
A: うん、『アドゥレセンス黙示録』見て、もっと色んな可能性ってのがあるのかなって思ったよ、素直に
B: 色んな可能性というのは?
A: さっき言ってた多数のオペレーターとか、バイパスやら切り替えの話
B: うん?
A: 殻を破ってからの自分はどんな道へも行けるし選択できるって話
B: なるほど
A: 髪や設定の違うたくさんのウテナやアンシーがいたり、分かれ道があったり、同じ人物でもいろんな可能性があるのかなって
A: エヴァとはまた違うけど、TV版も劇場版も共にウテナとアンシーがたどるそれぞれの可能性なんやなって
B: 確かにそうだな。劇場版ではアンシーと一緒に学園を抜けだしたウテナも、テレビ版だとウテナは学園を抜け出せてないんだから
A: 『新世紀エヴァンゲリオン』TV版最終回でも「これも僕の可能性」とかって言ってたな。色んなパターンを作るのが好きね
B: 1995年のエヴァのすぐあとなんだよね、ウテナ(1997年)
A: うんうん

ウテナたちの行く先に現れる「城」

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~ラストシーン。ウテナたちが来た方向には学園の影が、そして行く先には新しい城が既に見えている。薔薇の花びらが散ってエンディングへ~
B: あと今回画面を見ていて衝撃的なことに初めて気づいてしまったんだけど、最後にウテナたちが行く先には、やはり城があるんだよね
A: うん
B: 鳳学園という殻を破って、道なき道に踏み出した彼女らだけど、そこもまた、違う殻の中である可能性もあるんだ
A: ああ、学園の中にも外にも、同じような城があったから?
B: うん。ただし、アンシーが言うように、自分の意志でそこへ赴くのかどうか、ということが違うわけね

暁生
よせ。どうせお前たちが行き着くのは、世界の果てだ。


アンシー
そうかもしれない。でも、自分たちの意志でそこに行けるんだわ。
……さようなら。わたしの王子様。

A: ふんふん
B: そう、外と思っても、そこがまた幻想の中かもしれない、という仄めかしは明らかにあると思う
A: どこへ行ったとしても殻というのは存在してそうよね。でもホンマ、自分でそこに行くか閉じ込められるのかで大違いなわけで

カフカ、城を目指すこと

B: 近付けない城、といえばカフカの未完の小説『城』ってのがあって、その作品でも、主人公は色々な手続きをしているだけで、目的地である城に一向に辿りつけない
A: どういうことよ
B: おそらく『ウテナ』の場合なら、卵の殻を破壊して、つまり学園の外へ脱出して、どこかしらの決まった場所へ到着することが目的ではないっていうこと。むしろ殻を破壊し続けること、そこが世界の果てだったとしても自分の意志でそこに行くこと、その行為自体が革命なのかもしれない、と感じた
A: 行為が目的になってるのね。常に殻を破り続けろかぁ。でもそれって、庵野さんがエヴァで「アニメなんて観ずに現実を見ろ」とオタクたちを殴ったのとあんま変わんないでしょう?
B: そこね、僕は違うニュアンスを感じるんだよね
A: どんなふうに?
B: 庵野さんは『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で、アスカとシンジを砂漠に放り出して、アスカにシンジを否定させることで、そして実写映像使って観客を物語の、世界の外側に放り出してしまったと思う。
 ただ『ウテナ』の幾原さんは、今回のアンシーにとってはウテナだったけど、どこかの誰かとわかり合うことで、というかそれだけでしか、学園の、世界の外には出られないよ、と言ってるように思う
A: ああーなるほどなぁ
B: あまり簡単な図式にはできないけど、
 ウテナのラストに、庵野さんは『新劇場版:Q』のラストでやっと並んだ、とも言えるかもしれないんだ
A: ふんふん
B: 受け入れることで、砂漠を抜け出せる。エヴァの「砂漠」は、ウテナの「学園」と同じなんだな

カヲルくんと幾原監督

A: ていうか今の話で思い出してんけどさ、カヲルくんのモデルって幾原監督って知ってた?
B: そういう話あるね
A: 庵野監督は幾原監督と温泉に一緒に行ったりする仲だそうで
B: リアルシンジくんとカヲルくんじゃん
A: やからウチはカヲルくんが「僕は君とこうして一緒に星を見るために生まれてきたんだねぇ」っていうのは「好き」っていう表現を幾原流に回りくどく伝えてるんやと勝手に解釈した。素朴な意味でな
B: テレビ版だと「好意に値する」とかかなりストレートだけんどね
A: 別の友達は「あーだから貞本版のシンジはカヲルくん(幾原監督)への態度がちゃうんかー」とか言ってた
B: 庵野さん、幾原邦彦ならどう語るか、みたいのは考えてそう
A: うん
B: それおもしろいなー
B: 演劇的な表現方法を庵野さんに紹介したのも幾原さんときいたことがある
A: へぇ?
B: パイプイスとスポットライトの舞台装置とか、そういう感じするな
A: おお、言われてみれば…
B: 「おめでとう」の海も書き割りみたいなパースつけてあるとか

残酷なパラレルワールド

B: 素朴な思いとしてさ、「別の可能性」みたいな物語だと、当の本人は実際に救われてないというのがつらいなと思うのね。ただ、幾原さんの感じは、そういう単純なパラレルワールドとはまた違う感じがするんだよなー。むしろ、「世界を革命する2人は、いつでも『アンシー』と『ウテナ』になれる」という感じのほうが近いと思うんだ
A: 単なるシチュエーションのリテイクじゃないってこと?
B: ウテナだとさ、鳳学園というもの自体が現実じゃない、という感じがあるわけじゃん
A: うん
B: たとえば鳳学園を出ていくことで、人は赤ん坊として現実に産まれるんだ、みたいな裏設定があってもおかしくないよな。これはたとえ話だけどもね
A: おお、それ
A: 幾原監督はセラムンでもピンドラでも子供になって転生するラストを繰り返し描いてきたって考察で読んだ。アドゥレセンス黙示録でも最後スッポンポンやったし
B: それは、ツイッターのおはぎさんの記事だなー
失われた何か 「輪るピングドラム」の最終回をセーラームーンR劇場版、セーラームーンS、少女革命ウテナを交えながら振り返る。

A: そうなんか!
B: 確かにありえそうだよなー
B: つまりね、鳳学園を出られるのはウテナとアンシーだけなのよ。だとしたら、他の人間は出られない。ただ、もしウテナとアンシーというのが、わかり合うふたつの意志みたいなもの、がキャラ化したものだと考えれば
A: おおおなるほど…だから樹里や幹やワカメは高速から降りたんだな
B: うん、たとえば幹は梢と一緒に「ウテナ」と「アンシー」となり、学園を出るつもりなんだと思う。

アンシー
どうして……?


樹璃
今の君たちは、外を目指しているんだろう?
志が高いと、良い仲間が集まるもんさ



大丈夫。あなた達なら、きっと外を見つけられます。
僕達も、いずれはあとに続くつもりです!

 あらゆる人はアンシーであり、それぞれのウテナをみつけて鳳学園を出ることができる。樹里たちも「アンシー」として鳳学園を出ていくこともあるんじゃないかな。
 で、そういう「アンシー」「ウテナ」があのオペレーター達だったんじゃないかと言いたかった
A: 「なるほど」ってボタンがあったらたくさん押してる
B: 伝わったかー、嬉しい

ウテナピングドラム(※ピングドラム終盤について若干、話してます)

A: すげー変な質問やけど、わたしらはウテナなの? アンシーなの?
B: えー、「ウテナ」という作品(特にテレビ版)の主人公はアンシー、みたいな終わり方をしてるし、だからみんなアンシーなんだろうな。
 というかさ。アンシーとしてウテナに助けられたことのない人は、ウテナになることはできない、という思想をすごい感じるんだよ。テレビ版のウテナにとっての「ウテナ」、つまり自分に無償の愛を注いでくれる人間っていなかったわけだよ、少なくとも実在するキャラとしてはね。多分ね、鳳学園を出たアンシーは、誰かのウテナになることは出来ただろうなと
A: テレビ版最終回の「待っててねウテナ!」っていうのはそういうことか
B: 助けられたことがあれば「ウテナ」になれるというね。アンシーは「ウテナ」となって、ウテナという「アンシー」を探しに行くつもりなんだろう。ウテナってのは花の「がく」、花弁を支える部分の名だからなぁ。「幹」と「梢」みたいな対応にも似てる。
A: 「アンシー」って、助けられたことがある人なのか
B: ピンドラもそういうこと言ってたと思うよ。リンゴを分けてもらったことのない人は、リンゴを分けることができない
A: 人は一人では殻を破れないし、王子様にもなれないし、生存できないわけか。分けるリンゴを持ってないんだもんねー
B: 愛ね。そういうお互いがお互いを支え合ってはじめて、というキリスト教的な愛は、幾原邦彦のカラーだと思うな。少なくとも、賢治はキリスト教徒だし
(2014/12/14追記:これは思い違い。宮沢賢治は仏教、特に日蓮宗の信徒。)
B: ここらへん、庵野秀明キリスト教外典カバラ使って、キリスト教思想を脱臭して使ったのと対照的だよね
A: ふむふむ
B: ピンドラの高倉家の呪いというのはさ、
A: うん
B: 親からリンゴを貰えなかった、ということなのね
A: うん
B: 親から愛をもらえなかった人間の話なのよ
A: うん
B: 親から無償の愛を貰えなかった人間が、
 はたして誰かに愛をあげられるのか、という話よ

偽物(※ピングドラム終盤について、若干話してます)

B: ウテナは偽物の王子様を目指すわけ。
A: 一番最初に、冠葉が持ってたりんごはどこから来たんだっけ?
B: どこかに落ちてた、はず。牢屋みたいなところに
A: そうやそうや
B: 高倉家は偽物の家族で、家族を目指すわけよ
A: うん
B: ここには共通点があると思うんだ
A: せやね。でも、偽物が本物を超えてるよね
B: これは西尾維新の小説に出てくるんだけども、偽物は、本物を目指そうと努力し続けるから、本物より本物になれる、と。
A: 苹果とか百合の家庭は、一般的には本物の家族なのに、もう殆ど崩壊してたし
A: でもなぁ、ピンドラに関しては、一番最初にりんごを見つけ出すってすごく難しくないか? 無から有を見つけ出す感じで
B: そこだよな、本当にそう思う
A: そんなコロッと落ちてたらいいけど
B: 勿論ピンドラは、それを誰かと分け合うことが一番重要だったわけだけど、個人的には、なぜか誰かから無償で助けてもらってしまった、というアンシーのほうがリアルに思えるよ
A: きっかけが一番難しいよ(笑)
B: そういう意味では、ピンドラはウテナより先に進んだところを描いているとも考えられるけど、あまりに先んじてしまっているかもしれないな

幾原さんにやってほしいこと

B: 幾原邦彦さんに次にやってほしいのはさぁ
A: ふん
B: 自分がもらっているはずなのにそれに気付いていないようなリンゴを自分の中に再発見するような話かな
A: それは私も見たいな(笑)
B: あれ、それがピンドラか? 晶馬とか
A: 多蕗とゆりがまさにそうじゃない?
B: なるほど、そうかも
(2013/1/1 早朝のSkypeログより)

最後に:『少女革命ウテナ』の概観

 暁生は深夜のハイウェイを飛ばし、どこかに向かおうとしている。しかしそれは世界の外縁を周回しているだけに過ぎない。車はどこへでも行ける自由な乗り物だが、誰かが舗装した道路しか走れないという意味では不自由だ。だからこそ、ウテナとアンシーが走るのは、舗装されていない荒野でなければならないのだろう。
 彼女らは「永遠」を失い、「永遠」に憧れ、「世界の果て」に囚われた。
 いや、そもそも「永遠」なんて無かったのだ。終盤でこのような会話がある。

冬芽
ここは、全て王子様を中心にして作られた場所なんだ。
それなのに、生身の王子様だけがいない。
だから、その空白を埋めるために、このゲームは必要なのさ。
彼女が薔薇の花嫁になった時、あの永遠があるという城は現れた。
そう、兄である王子様を殺したときにね。


ウテナ
違う。王子様は最初から死んでいたんだ。

 学園では「永遠」が存在しないということを受け容れられない人間が、生身の人間に「永遠」を押し付けようとしているが、それは無理だ。人間は生身であるがために、「永遠」にはなれないのだから。これに気付くことが、「王子様を殺す」ということだったのだ。
 上の会話では「王子様を殺したのはアンシーだ」「王子様は最初から死んでいた」ということを話しているが、実は「王子様」とは「永遠」という概念そのものだ。だからここでは「『永遠』が失われてしまったのは、我々があの頃の光射す庭を失ってしまったのはアンシーのせいだ」「違う、そもそも『永遠』が存在すると思っていたこと自体が間違いだったんだ」と読み替えられる。ウテナもアンシーも「永遠」という幻想と決別した。だからウテナとアンシーは「永遠=王子様を死なせた共犯者」と言ったのだろう。

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 さて、ハイウェイのシーンで明らかになったように、城とは偽物の永遠、すなわち「世界の果て」そのものだった。そしてウテナとアンシーが行く先には、更に大きな城が待っている。学園という殻を破った二人は、ウテナの言うように、また新しい「世界の果て」に囚われるのかもしれない。
 しかし学園という卵の殻を破ったウテナとアンシーは、今や、一対の翼を持った一羽の鳥だ。彼女らはもう一度、世界の果てという殻を破壊し、次の荒野へと足を進めていくのだろう。それは灰色の世界でつややかに輝く薔薇の花弁が示唆している。
 理想という星に向かって飛び続けること、殻を破り続けること、あなたを見つけて砂漠を抜け出すこと。世界を、革命するために。

 最後に『アドゥレセンス黙示録』のラストシーンの会話を、そのまま抜粋する。ここで書かれていること、そして画面に描かれているものには、本作のエッセンスが全て含まれていると思う。

アンシー
お兄様。


暁生
そうだよ、お前の王子様だ。
怖がらなくても大丈夫だ。
さぁ、僕と一緒に帰ろう。
生きながら死んでいられる、あの閉じた世界へ。


アンシー
かわいそうに。
あなたはあの世界でしか、王子様でいられないのね。
でも、わたしは、ウテナは出るわ。外の世界へ。


暁生
よせ。どうせお前たちが行き着くのは、世界の果てだ。


アンシー
そうかもしれない。でも、自分たちの意志でそこに行けるんだわ。
……さようなら。わたしの王子様。


暁生
そうか。残念だなぁ。
だが、お前たちには、やはりあの世界で、お姫様を続けてもらうよ?
なぁに、生きながら死んでいればいいだけのことさ。


アンシー
世界を……!


ウテナ・アンシー
革命する力を……!


ウテナ
ねぇ、これから僕たちの行くところは、道のない世界なんだ。
そこで、やっぱり僕たちは、ダメになるのかもしれないよ?


アンシー
ウテナ、わたし、分かったの。
わたしたちは元々、外の世界で生まれたんだわ。


ウテナ
じゃあ、僕たちは、元いたふるさとへ帰るんだね。
……僕もわかったよ。どうして君が僕を求め、
僕が君を拒まなかったかが。
僕たちは、王子様を死なせた、共犯者だったんだね。


少女E
そうよ? 外の世界に道は無いけど


少女F
新しい道を作ることはできるのよね?


ウテナ
だから僕らは行かなくっちゃあ。
僕らが進めば、それだけ世界は広がる、きっと。

以上。