アニメキャラの目元表現(『アイドルマスターシンデレラガールズ』神埼蘭子の眉毛)
みんな、神埼蘭子の眉毛見てる?(なんて挨拶だ)
アニメもやっぱり絵だから、目元の表現ってちょっと命みたいなところがあるし、キャラクターによって描かれた方も個性が出る。
たとえば『アイドルマスターシンデレラガールズ』の神崎蘭子は、他のキャラクターとは眉毛の描かれ方が違うんだな。
ちょっと見えづらいか、拡大してみます。
武内Pの視界 ~『アイドルマスターシンデレラガールズ』第1話のキャラ描写~
彼のような人を「イヌ系」とでも言うのだろうか。
TVアニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』第1話の放映後、話題をさらったのは、武内駿輔さん演じる、役名「プロデューサー」、人呼んで「武内P」の異形のキャラ造型である。
彼は200人弱がひしめく『シンデレラガールズ』の中で、第1話にして独自の地位を占めるに至った。なぜか。
この第1話、見返してみれば、細かい仕掛けが山のようにつめ込まれている。
恐らく、それが僕らに「武内P、もしかしてめちゃくちゃ良いヤツなのではないか」とさえ思わせてしまっているのではないか。
この記事では、特に武内Pの人となりが伝わってくる描写に観点を絞り、各シーンの描写を追っていきたい。
※第1話はバンダイチャンネルから視聴できます。
「アイドルマスター シンデレラガールズ」 | バンダイチャンネル
武内Pの観察力と、「首元に手を当てる」クセについて
346(ミシロ)芸能プロダクションアイドル部門、シンデレラプロジェクト担当、プロデューサー(以下、武内Pと記載)。
身長はレッスン室の鴨居に達する2メーター弱、ごわごわした髪と三白眼、異様に彫りの深い顔立ち、年齢不詳。
めったに顔色を変えない武内Pだが、それは彼が冷たい人間であるということではない。
彼の、どこを見ているのかわからない目には、色々なものが映り込んでおり、そこから他のキャラクターたちに対して、不器用ではあれ、すごく気を遣っていることが、映像から伝わってくる。
アニメソングの「キラーフレーズ」 (ゆゆ式 Advent Calender 11日目)
『楽園追放』は3DCG表現を逆手に取った演出に注目
どうも。ヒグチです。
『楽園追放』について、インプレッションな感想記事を残しておきたいと思って書いてます。
次のセクションから完全に【ネタバレ】していくので、気をつけてください。
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色々なものが一見解決したかのように見える世界で、人類はゆるやかに肉体的にも精神的にも縮小再生産を重ね、結果的には衰退を続けているという、ちょっとシニカルな世界観。そういう中で、何か本当のものがあるかもしれないと、もがいていくキャラクターたちに好感が持てる。
舞台となっている青空と砂漠のように、描写にせよ演技にせよ健康的で、ポジティブな作品だと思った。
で、そこから、もうちょっと考えてみたいわけで。
キャラクターが作画される⇔ディーヴァが計算する
まず最初に気付いたのは、最初のビーチのシーン。人々が完全3DCGで動いているんだよね。対して、アンジェラが地球に降下して街に着いてからの人々は2D作画。
あなたを見つけて砂漠を抜け出すこと ~『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』を今考える~
『少女革命ウテナ』
というアニメがある。今から17年前、1997年の4月から12月にかけて放映された全39話のオリジナルTVアニメシリーズだ。
監督である幾原邦彦のもとに結集した若いスタッフ(のちに第一線級のクリエーターとなる人々ばかりだ)が作り上げた本作は、鮮烈なビジュアル/ストーリー/音響で、多くのアニメファンの記憶に独自の位置を占めるに至った。
今回俎上に上げるのは、TV版放映の翌々年、99年7月に公開された劇場版『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』だ。
難解と言われる『少女革命ウテナ』シリーズだが、その原因は、ひとつの言葉が、シチュエーションによって全く違った意味で用いられることだ。
本作には「永遠」、そして「世界の果て」という言葉で言い表されるものとの対立軸がある。それは、永遠に続くもの、絶対に信じられるものは存在するのかしないのか、という議論だ。
この世界のどこかに限界点、世界の末端があるのだとすれば、永遠に続くものは原理的にあり得ない。であれば、どちらかの立場をとるのであれば、もう片方は否定するしかない。この2つは本作のキーワードであり、またこの対立がどのような結末を迎えるのか、というのが本作の主題・テーマに深く関わってくる。
更に、「城」「星」「王子様」「光差す庭」というサブキーワードがある。これは一見、「永遠」に属するように見えるが、後半に行くに従って「世界の果て」側に属していく。つまり、これらは「かりそめの永遠」だ。城は幻であり、星は投影された影であり、王子様は最初から死んでおり、光射す庭はもう無い。
だから、本作の登場人物たちは、何らかの意味で「永遠」を失った人々だ。彼らは「永遠」を失ったが故に「永遠」を求めている。そのため、「永遠」を約束する学園のシステムに進んで従い、そして縛られているのだ。(本作では、現実主義者に見える者ほどロマンチストであり、ロマンチストに見える者ほど現実主義者な傾向がある。)
TV版終盤では「世界の果て」との対立と、その結末が描かれた。一方、劇場版では「永遠」の喪失と「世界の果て」の支配と、そこからの脱出に描写を絞り、より内的なメッセージ性が高められている。これは、内的な解決をTV版で、外的な出来事を劇場版で描いた『新世紀エヴァンゲリオン』と対照的だ。
以下では、僕と友人のゆるめのチャットログをベースに『アドゥレセンス黙示録』の見どころを話していく。